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「クリスチャンらしさ」を、敢えて出してみる?

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
新約聖書 マタイによる福音書 5章14-16節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

6月は大変忙しかったのでした。いや、まだもうちょっと続くけど。夜の会議や泊まりの出張も多くて。

私は普段は自転車通勤なのですが、出張になるとバスだの電車だのに乗ります。鉄道には全く詳しくないけれど、「乗り鉄」的要素があるのではと自負するくらいには電車移動は好き。他の参加者が空路を選択するような出張先でも、陸路ばかり使うのでびっくりされたこともあります。

さてそんな「電車に乗るのは大好き」な私ですが、このところ電車に乗る度、苛立ちやもどかしさを感じる場面に何度も出くわしておりました。
何かって言うと、明らかに身体上しんどそうな人が座席を譲ってもらえないという状況。
杖をついた方、足元の悪そうな方が目の前にいても、みんなスマホを見ていて気付かないのか気付かないふりなのか……。ある時などは優先座席にずらりと若い方たちが座っていて、その前にだいぶご高齢と見られる男性が立ち続けている、ということもありました。「譲って差し上げては?」と私が声をかければいいんだとは思いますが、離れた所からやきもきしながら見守り続けることしかできなかった……。自分の不甲斐なさにも腹が立つ。
そんなわけで、空席があればむしろ座っておいて、いざという時に私が譲るのだ!などとも思っています。

そんな私、先日バスの中で「ん? あっ!」と、ワンテンポ遅れて譲り損ねる事態が起こりました。目の前をすっと通り過ぎていった女性が、妊婦さんだったんです。

私も妊娠経験がありますが、「妊婦かどうか」って外見では判断しにくいもの。で、目印になるのがマタニティマークなんですが。
皆さんもたぶんご存じの、これです。↓↓↓

これが目に入れば「どうぞ」と言いやすいんですが、なぜこの時私の反応が遅れたかというと、マタニティマークの「バリエーション」があるというのを知らなかったからでした。


こんなのあるんですね、最近。確かにかわいらしい。
ただ、うっかりすると「おしゃれグッズ」に見えてしまって、本来の目印としての機能が分かりにくくなってしまうのでは……と思いました。
その妊婦さんは私の前を通り過ぎた先で座れたから良かったけれど、若い方だと妊婦さんだと分かってもらえないことで余計に譲ってもらえなくなってしまったりしなかなぁとちょっと心配しました。

「おしゃれさを優先したがゆえに使い方やメッセージが分かりにくくなってしまう例」みたいなのは、商業施設のお手洗いやエレベーター表示なんかの話でよく聞きます。あと、点字ブロックを「馴染ませ色」にしちゃだめ、みたいな話とか。某アーティストグッズがヘルプマークに酷似していた、なんて話もありました。

緊急性の高いもの、みんなに広く分かって欲しいものは、「おしゃれさよりも分かりやすさ」を優先すべきということなんでしょうね。紛らわしいのはダメってこと。

ということを考えていたら、冒頭の聖書箇所を思い出しました。
クリスチャンも、「分かりやすくクリスチャンである」ということがあってもいいんだろうな、と。
燭台に灯りを点して、それを「升の下」に置いて隠してしまったら、いくらともし火が明るく輝いていても、それは誰の目にも触れず、結局は「周りの暗がり」となずんでしまいます。

クリスチャンも一人の人間です。他の人と基本的には同じです。いや、そらそうなんですけどね。たまに「え、クリスチャンの人もお笑い番組見るんですか?!」みたいに言われることもあるので(笑) クリスチャンだって腹が立つ時は腹が立っちゃうし、泣いたり、失敗したり、心が狭くて自分が嫌だな、と思う日だってある。(まあそういうのをめそめそしながら反省してお祈りとかするんだけど)
また、そうやって「クリスチャンは特別」と思われてしまったままだと、「だから私とは違う世界の人たち」と思われて、聖書の言葉やキリスト教の教えに触れてもらうきっかけを逃してしまうかもしれない。
そう思うと、「悪目立ちしないように」というか、「クリスチャンもそうでない人も変わりはないですよ」と「馴染ませ」にかかっちゃうというか、ちょっと俗っぽく偽悪的に振る舞った方がいいんだろうかとか、そんなことを思わないでもないわけです。(いや、そんなしょうもないこと考えてるの私だけかもしれんけど)

でもこのマタニティマークの件のように、「一般のおしゃれグッズ」と思われてしまうと大切なサインが人に届かないこともあるわけで、そういう意味では「私クリスチャンなんです」ということがもう少し分かりやすく伝わってもいいのかもしれないな、と思ったりしたのです。

わざとやっているわけではないけれど、私が「どうにもこうにもクリスチャンである自分を隠し切れない(いや、いつも隠してはいないんだけど)(言い訳ばっか(笑))」と思うのは、「祈っています」と伝える時です。
痛みや苦労の多い状況にある人に対して、「祈る」という形で応援できるのは、クリスチャンならではの強みだなぁと感じています。だからそういう時は遠慮せず、「平安をお祈りします」と言っちゃう。

「ああ、クリスチャンってやっぱり他の人とは違って、辛い時にそういう形で力になってくれる人なんだな」と思ってもらえるなら、一石二鳥的な喜びがそこにはあるような気がします。

他人に伝わらない「業界用語」ではなく、みんなに良い感化を与える「教会用語」なら、一種のクリスチャンアピールのように使っていってもいいのかもな、と思った次第です。



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