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エジプトの建築-ピラミッド①-地域のお宝さがし-118

 建築の歴史に興味があると、国内だけでなく海外の建築物もみたいと思うようになります。これまでに、何度かヨーロッパなどを訪れる機会がありましたが、「見る!」・「感じる!」ことで、その地の建築物に対する理解が深まるように思います。そんな、筆者が「見た!」建築物やまちなどを、時に応じて紹介します。

■ピラミッドの発展■
 エジプトの宗教は、霊魂の不滅と来世の生活を信じ、国王と神は同格と考えるもので、ピラミッドや神殿などの巨大な建築物が建造されました。ピラミッドや神殿はエジプト建築の重要なテーマで、現在に残る不朽不滅のモニュメント(記念建築)として評価されています。ただし、遺跡の多くは破損していますし、また、遺跡が存在する範囲が、北はアスワンから南はカイロまで、ナイル川の流域約1000Kmという広さを考慮すると(図1、注1)、当時に思いを馳せるには、妄想に近い想像力も必要で、妄想さえも楽しくなります。まず、ピラミッドの発展過程をみましょう。

図1 エジプト要図

注1)図1・図9は、『建築史』(市ヶ谷出版、1998年)より転載、加工。ピ           ラミッドに関する記述で、断らない場合は、『西洋建築史図集三訂                 版』(彰国社、1990年)、髙津道昭『ピラミッドはなぜつくられた               か』(新潮選書、1992年)による。

●マスタバ●
 初期王朝時代(紀元前3000~2650年、首都メンフィス)の王墓は、地下に設けられた墓室と地上部の台形の構造物で構成され、「マスタバ」と称されています。古王国時代(前2650~2180年、首都メンフィス)の第3王朝(前2650~2610年)以降のマスタバは、竪坑によって墓室に達する形式となり、地上部のマスタバ側面の2ヶ所のニッチ(凹み)を出入口にしていました(図2、注2)。マスタバは、ピラミッドが建造されるようになっても、造営されていました。

図2 マスタバ概念図

注2)図2・図5・図11は、前掲注1)『西洋建築史図集三訂版』より転載、             加工。初期王朝の首都メンフィスは、ギザ南部約20kmに位置する。

●階段ピラミッド(サッカラ)●
 ギザ南部のサッカラに位置する階段ピラミッド(第3王朝)は、マスタバを積み重ねて建造されました(図3)。近づいてみると、組積造壁面の修復工事の様子が分かり、その大変さが実感されますが、「建築屋」の習性で、つい足場にも目がいってしまいます(図4)。周辺では遺跡の発掘が行われていますが、全貌を把握するため復原図を掲げます(図5)。

図3 階段ピラミッド(サッカラ)
図4 修復工事の様子
図5 階段ピラミッド複合体復原図

 階段ピラミッドの周囲は周壁で囲繞され、東南部の「入口」から、「列柱ホール」を通って「大中庭」に入ります。西部には3段の「テラス」が設けられ、中央部に「階段ミラミッド」、東部に「神殿群」、ピラミッドの北面中央部に「葬祭神殿」が配されています。階段ピラミッドとその付属施設は、マスタバからピラミッドへの発展過程を示しています。このように、ピラミッドのほかにも種々の施設が確認されていることから、「複合体」(コンプレックス)と称されています。この複合体の規模は、15ヘクタール(ha)以上あります。1haは100m×100mですから、その規模に驚かされます。

 屈折ピラミッド(ダハシュール) 階段ピラミッドの次の段階として、第4王朝(前2610~2490)に、サッカラ南部のダハシュールに「屈折ピラミッド」が造営されました(図6)。斜辺の傾斜角が途中で変わっていることによる呼称ですが、傾斜角が変わった理由として、①当初からの計画、②造営の途中で、上部の荷重を軽減する必要が生じた、③造営の途中で、至急に工事を完了させる事案が生じた、などの解釈がなされています。

 このような外観は、このピラミッドだけで、「菱形ピラミッド」や「二重ピラミッド」とも称されています。

図6 屈折ピラミッド(ダハシュール)

●ピラミッド群(ギザ)●
 ギザのピラミッド群は、第4王朝(BC2610~2490年)に建造されたもので、第一~第三ピラミッドが隣接しています(図7)。ピラミッド群の大きさは想像以上で、ナイル川の対岸(東部)のカイロからも見えましたが、ラクダがトラックで運送されているのにも驚きました(図8)。

図7 ギザのピラミッド群
図8 カイロから見た第一ピラミッド

 第一ピラミッドの建造では、「地下室」(墓室)の工事が変更され、次いで「王妃の室」も放棄され、最終的に「大廊下」の奥に「王の室」が完成され、「空気抜き」や「入口」が設けられています(図9・10)。

図9 第一ピラミッド断面図
図10 第一ピラミッド入口
図11 ギザのピラミッド群

 ギザのピラミッド群を復原図(図11)からみると、各ピラミッドの周囲には石造の塀が設けられ、東面の中央部の葬祭神殿から延びる廊下の先端に流域神殿が設けられていたことが、第二ピラミッドの配置から分かります。

また、ピラミッド周辺には、「付属ピラミッド」などの施設が配され、階段ピラミッドと同様の複合体を構成していました。これらのピラミッドが、「何のために」造営されたのかは興味深い要素で、①「石の聖書説」、②「太陽神殿説」、③「蜃気楼説」、④「治水説」、⑤「日時計説」などが紹介されていますが(注3)、筆者は、「治水説」に惹かれています(注4)。

ことに、18世紀末にスフィンクスは、肩の下まで土砂に埋まっており、現在のスフィンクスには、「メネス(王の被る頭布)のすぐ下まで水に浸蝕された痕跡」があるとされると、「そうか」と思ってしまいます。幕末(19世紀中期)に、武士がスフィンクスと記念写真を撮っていますが(図12、注5)、スフィンクスの埋まり方は、この頃も大きな変化がなかったのかも知れませんが、一方、現在のスフィンクスをみても(図13)、「水に浸蝕された痕跡」が判然としないのは、筆者の写真のせいでしょうか。

図12 幕末のスフィンクス
図13 スフィンクス

 マスタバ・階段ピラミッド・ピラミッド群を見てきましたが、古王国時代に造営されたこれらは、キザ南部のナイル川下流域に集中して造営されていました。

注3)『大ピラミッドの謎』(学習研究社、1996年)。
注4)前掲注1)髙津道昭『ピラミッドはなぜつくられたか』。
注5)鈴木明『維新前夜』(小学館、1988年)より転載。

■閑話休題■
 エジプトとくると、童謡「月の沙漠」のイメージがつきまといます。実際の舞台は、千葉県の御宿海岸なのですが、長い間、勝手にエジプトと思い込んでいました(図14)。現地へ行ってみると、スフィンクスの正面にはケンタッキー・フライドチキン(KFC)があります(図15)。周辺の都市化が進み、古代と現在が混交するのも、エジプトの魅力かと思います。もしかして、図15は、KFC「スフィンクス前店」とでもいうのでしょうか。気になるところです。気になるといえば、ずいぶん以前に「偽スフィンクス」の記事を見ました。記事には、「将来的に取り壊す」とありましたが、どうなったのか、これも気になるところです(図16)。

図14 筆者が妄想する「エジプト」
図15 スフィンクス前のKFC
図16 「偽スフィンクス」


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