大阪都心の社寺めぐり-地域のお宝さがし-12南御堂復興計画②

所在地:大阪市中央久太郎町4-1-11

前回は、第1期~第2期復興計画を紹介しました。現在の本堂は第3期復興計画によって実現したものですが、今回はその決定経緯を紹介します。

■第3期復興計画
1)基本方針
第2期復興計画における阪大案・木村案などを検討する過程で、別院側は莫大な復興費用の捻出には、境内地を貸地することが必須であることを認識するようになります。そこで、土地問題に関する小委員会を設け、各方面との交渉の結果、昭和32年6月、竹中工務店が境内地(2,240坪)を借地し、寺院側の指示のもと建築の設計・施工を行うなどの事項が確認されました。
そして、復興計画を推進するための建設部会において、昭和33年1月、


①昭和の御堂として後世の手本となるような新機軸を出した建物とする。
②外見は寺院らしくするが洋風でもかまわない。本堂と講堂(600~700人収容)は分け、立体的に建設する。
③御堂筋に面して東向きとする、などの基本方針が話し合われました。


この基本方針のうち①②は、阪大案・木村案の検討から導き出されたと思われます。

2)専門家の意見聴取
 翌2月の建設部常任委員会で竹中工務店案が提示されましたが、大半が本堂と講堂を並べるか、上下に重ねた重層形式で、屋根の形態が異なる程度であったようです(図1)(注1)。

図1

注1)図1は昭和30年8月の案。残存図面には昭和31年2月案があるが、平面・立面とも図1と大差ないこと、透視図が残されていないことから、様子が窺いやすい図1を掲載した。竹中工務店の第2期・第3期の設計案は次回に紹介。

一方、本山式の意匠を推す委員も少なからずあることも分かりました。本山式の意匠とは、第11回で掲載した、桑名萬組案(図1(a)(b))のような伝統的な形態と思われます。
そこで4月に、村田治郞(京都大学教授)、藤原義一(京都工芸繊維大学教授)、滝沢真弓(大阪市立大学教授)、竹腰健三(日本建築協会会長)らの専門家に、新しい仏教寺院建築の本堂と講堂のありかたや外観意匠について聞いたところ、以下のような意見が開陳されました。


①本堂と講堂を1棟にまとめると外観が大きく豪壮であるが、1棟にするか別棟にするかは費用の問題。
②外観は、寺院という観点から従来の形式が良い、洋風は寺院として失敗率が多いのではないか。
③伝統的形式と近代建築の形式をマッチしたものが良い。


しかし、専門知識の乏しい委員の意見のみでは復興計画の進展が難しいとの判断から、委員会の相談相手となる建築顧問を選定することになります。各委員は、選任される顧問が本堂の建築様式に大きな影響を与えることは認識していました。

3)東京大学に顧問を依頼
 5月、内田祥三(元東京帝国大学総長)が建築顧問に就任します。この時点で、竹中工務店設計の可能性は無くなりました。
内田は、松下清夫(東京大学教授)とともに境内を調査し、また別院側の意見を聞いて設計に取り組み、8月には松下から、①1棟併設、②1棟重層、③2棟別置の3案が示されました。基本方針②では立体的な重層案が掲げられていましたが、採用されたのは本堂と会館(ホール棟)の2棟別置案(図2~3)です。

図2

図3

(1)本堂(図4)
本堂を設計した太田博太郎(東京大学教授)は、現存するすべての本願寺の本堂が近世の再建で、非常に装飾的であることを指摘します。そして、本堂は、「信者の集まるところであり、信仰の対象を安置する場所であるから、ここに参拝する人が異様の感を懐き、参拝する気分を損なうものであってはならない」(注2)と、意匠の方向性を示します。
さらに、新築される本堂には、耐震・耐火の面から鉄筋コンクリート造を採用するので、装飾的な木造細部の再現は無意味であり、伝統的な形態が生かされ受け継がれていくような、時代に応じた斬新的なものが良いと形態の方向性を示し、この構造に即した単純な形態が合理的であるとの観点から、宗祖親鸞聖人のとき、すなわち鎌倉時代の様式を念頭に設計します。
そのように見ると、屋根や軒の曲線や全体のプロポーションは禅宗様を想起させますし、前面に備えられた蟇股(図5)の形態には鎌倉時代の特徴が感じられます。

注2)『建築と社会』1961年7月号

図4

図5

これは、建設部会が示した復興本堂の基本方針①「昭和の御堂として後世の手本となるような新機軸を出した建物」や、専門家の意見の③「伝統的形式と近代建築の形式をマッチしたもの」に該当するものと思えます。③をどうとらえるか、北御堂を設計した岸田日出刀は、モダニズムと伝統の調和との観点から、装飾の無い躯体に瓦葺きの大屋根を架けましたが(図6)、太田は新しい構造で伝統を表現しました。この対比はとても興味深いものです。

図6

(2)会館(ホール棟)(図7~8)
ホール棟を設計した松下は、収容力1,000人規模のホールを設けることから、必要な広場を確保するため建物を持ち上げ、その下部を開放するピロティとしますが、結果的にホール棟が寺院の楼門を兼ねることになりました。すなわち、本堂前面のホール棟は、『摂津名所図会』に描かれた「四足門」と位置づけられ、近世における南御堂の伽藍構成を現代的に踏襲したのです。

図7

図8

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