大阪都心の社寺めぐり-地域のお宝さがし-09大工家の住居

前回は、南御堂前の借家の間取りや拡幅以前の御堂筋の賑わいなどを見ましたが、この付近は、戦前の大谷仏教会館、戦後の南御堂復興計画など、私的に話しの「ネタ」が多い場所です。そこで、「社寺めぐり」と言いながら、社寺をめぐらず、もう少しこの場所に踏みとどまります。

■大工古橋家
前回紹介した南御堂前の借家図を作成した大工古橋家(屋号は山本屋)について、見ておきましょう。古橋家は、宝永3年(1706)8月、南御堂本堂の釿始(注1)に参加し、正徳2年(1712)8月の上棟式の記録に、古橋太郎兵衛(南久太郎町五丁目在住)が小棟梁を勤めたことが記されていることから、遅くとも18世紀初頭には、同町において大工業を営んでいたと思われます。

そして、享保11年(1726)4月大坂23組全体の大工年寄、寛政7年(1795)5月に月行事、嘉永7年(1854)10月から、所属する10番組の組頭を勤めるなど、大坂大工組の主要な役職に就いています。また、居所も、天保14年(1843)に「南久太郎町五丁目龍野屋庄七借屋山本屋太郎兵衛」として確認されます(注2)。その場所は船場、現在の心斎橋筋とその東の丼池[どぶいけ]筋の中間付近です(図1)。同町は、明治5年以後「南久太郎町四丁目」となりますが、江戸期を通じて同所に居住してきたものと推測されます。

図1

古橋家の住居が、嘉永4年(1851)頃の同家の絵図をもとに復元されています(注3)(図2)。その様相を見てみましょう。ちなみに古橋家は、大正10年(1921)2月には「大阪府西成郡玉出町」での居住が確認され、江戸時代以来住み慣れた船場を離れています。

図2

注1)釿始[ちょうなはじめ]:大工が木工事を始める際に行う建築儀礼。
2)西和夫・渡辺勝彦『大工古橋家文書の研究』
3)大林組編著『復元と構想』

■古橋家の住まい
●敷地
古橋家が所在する船場は、東西は横堀川、北は土佐堀川、南は長堀川に囲まれた地域で、約40間四方で町割が行われ、南北方向の中央部に背割下水(東西方向)が設けられていました。その1区画を東西方向に8分割した一つ、すなわち間口5間、奥行20間(100坪)が、1戸当たりの平均的な敷地規模です。図2を見ると、北面が南久太郎町通りに面する古橋家も間口5間・奥行20間で、船場の平均的な敷地規模であったことが分かります。

●施設
表家の裏には、空地に面して土蔵と納屋が設けられ、その奥の裏家(5戸)とは明確に区切られています。立面図を見ると、表家はつし2階建てで瓦葺きです。屋根は瓦葺きですが、本瓦か桟瓦か不明ですが、大坂の町家は本瓦葺きが多かったので、ここもそうだと考えられます。

表家の裏に続く土蔵は本瓦葺きです。土蔵の裏に、住戸に接して「井戸」・「惣雪隠」・「芥溜め」が設けられています。裏家の長さが9.5間ですから、概ね敷地の半分を表家が占めていました。しかし、これだけの規模の住居が借家であり、さらに借家人が裏借家の経営をしているということに驚きます。

大坂には借家人が多くいました。借家人には公役などを負担する義務が無いかわりに、町内の一切の事柄についての発言権もありませんでした(注4)。町内の運営に関わらなければ、公役を負担しないですむというのは、ある面で気が楽であったのかも知れません。
注4)宮本又次『大阪』

●路地
敷地の東側に、裏家へ通じる「路次」(路地)の扉が設けられています。ついでながら、路地より狭い「小路」もありました。船場では、ことに浮世小路が有名で、「今橋南の小路、東ぼりゟ西也」(注5)、すなわち、浮世小路は、東横堀川に架けられた今橋の南側、背割り下水の上に蓋をした東西方向に通る道路の名称で、これに面して手代の隠し宿や奉公人の出合宿などがあり、なまめかしい雰囲気があった(注6)ようです。となると、南御堂前の「御前小路」に面した住居や奥の裏家にはどんな人が住んでいたのか、気になります。
 注5)『増補大坂町鑑』(天保13年=1842)6)『摂陽奇観』

●表家
正面の入口の両側には格子付き窓がありますが、揚店(バッタリ床几)はなく、商家でないことが分かります。入口の右側の四畳に「道具棚」が設えられていることから、「板間」は木材加工などの仕事場と思われます。

「板間」の左は壁で仕切られ、路地側に出入口が設けられた住居になっていますが、室の畳の敷き方や「置押入」の位置、「台所」・「雪隠」が通り庭に突き出したいびつな形態から、畳敷き部分は、元来揚店を備えた店部分であったのではないか。

すなわち、古橋家は、商家(借家)の店舗部分を何らかの理由(例えば、弟子が独立したなど)で、路地側に出入口を設けた住居に改築したのではないかと、想像を逞しくしています。

「板間」に面した中戸を入ると、右側に中の間・奥の間(ともに6畳)が並び、中の間の押入には、2階への階段(恐らく箱階段、図3)が仕込まれています。

図3

奥の間には、床・書院が設えられ、押入に「仏間」と記されていますが、ここに仏壇を納めていたのでしょう。
空地に面する縁側は、「土蔵」・「雪隠」につながっています。この雪隠は、来客などの上便所です。日常的に使用する下便所は、通り庭に設けられています。

中の間・奥の間に面する通り庭は「三和土」(注7)仕上げで、奥の間は壁で仕切られ、その前の2畳に面して「へっつい」と「こけら入れ」(注8)、反対の壁に接して、「へっつい」・「水壺」・「走り」(流し)・「井戸」が並び、下便所の横には「風呂」も設けられています。なお、「へっつい」の数が多いのは、出入の職人たちに賄いを供したものと思われます。


注7)「三和土」[たたき]:花崗岩・安山岩などの風化した叩き土に、消石灰とにがりを水で練り混ぜたものを塗って、叩き固めたもの。土間の床に使われる。「漆喰叩き」ともいう。
注8)こけらには、屋根葺き材のほかに、削りくずやこっぱの意味がある。ここでは、後者の意味と推測。

●裏家
1)古橋家の裏家
裏家は5戸のうち4戸が、間口2間・奥行3三間余(約6坪、図4)です。

図4

出入口の片引き戸を入ると、幅1間の「三和土」に面して2畳の広敷、右側の「台所」の路地側に「へっつい」・「走り」が並び、上がり縁に接して置かれた二つの瓶は、一つが飲料用、一つは洗滌用だそうです。奥の室は4.5畳ですが、1.5間幅の地板に「置押入」を備え、室と「空地」の境は障子で仕切り、外側に雨戸が設えられています。風呂は無く、便所は共同です。

図5

出入口を入ると半間四方の「三和土」の横は板張りで、「流し」と「へっつい」が設けられています。土間と室(4.5畳)の境に建具は無く、押入もありません。江戸では、「へっつい」・「流し」は室内側から利用しました。風呂は無く、便所は共同です。規模で見ると古橋裏家の約半分です

江戸では1間が6尺、畳の大きさは5尺8寸×2尺9寸です。大坂・京都では1間が6.5尺、畳の大きさは6尺3寸×3尺1寸5分です。また、江戸では壁の中心線の交点に柱を配置するため、室の広さは壁厚の分だけ狭くなります。

大坂・京都では畳の大きさが正味の室の広さになります。4.5畳の室を比較すると、大坂・京都では、江戸より四方に約6寸(約18㎝)広くなります。畳が大きく、正味の畳数が室の広さになりますので、大坂の裏家は江戸に比してかなりの広さがありました。

居住者は、古橋裏家は大工の弟子と思われます。最奥の規模が小さい1戸が独身者用でしょう。他の4戸の入居者には妻帯者がいた可能性もあるでしょう。

江戸の裏家には、日雇いや行商人などが多く住んだようですが、家族はどうでしょう。江戸は男所帯の割合が高かったようですが、裏家で女性(恐らく女房)が炊事をしている場面がありますが、子共は描かれていません。

路地奥で遊ぶ子供など、子供が描かれている場面は多く見られますが、裏家の中では見られないのは、「子供は風の子」の言葉通り、表で遊ぶのが当たり前として描かれなかったのか。それとも、この広さでは大人1~2人が生活するのが限界で、子供ができたら少し広い裏家に転居したのでしょうか。

■閑話休題■
大坂・江戸のどちらにしても、このような居住環境で生活していたのかと思うと、裏家住まいの庶民のバイタリティーにはただただ敬服するばかりです。「江戸っ子」を表すのに、「宵越しの銭は持たない」という言葉があります。意味は様々に解釈されていますが、狭い裏家での生活を考えると、「持たない」のでなく、「持てない」のだったのかも知れません。

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