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異形の匣庭 第二部⑩-2【別のモノ共】


前回までのあらすじ
母の面影を追って島根に来た継(つなぎ)。そこで祖母のセツに出会い、母がただのアルピニストではなく別の次元の存在を扱う仕事をしていたと知る。
セツとセツの友人である源五郎の口論から逃げ出した先で、継は異形達に襲われていた……



「誰か! ねえ!! セツさん!!! ゲンさん!! な、鳴海!!!」
 どれだけ叫んで叩いても開きもしない扉を前に、鉄パイプを使って四苦八苦していた。人力ではまず開かないし、内鍵なんてものもない。棚を作る為に置かれていたであろう鉄パイプで殴りつけてみたが開くわけも無く、地面と扉の隙間に差し込んでどうにか閂を外そうと試みていた。どの映画だったか忘れたが、鉄パイプの下に物を挟み込み、てこの原理で閂ではなく蝶番部分を外しているのを思い出したからだ。100キロを優に超えるであろう鉄の扉が浮き上がるなど到底無理だろうし、第一、蝶番部分が外れる保証も無い。けれど座して死を待つなんて出来る訳がない。
 何度も繰り返し鉄パイプに体重を乗せる。金属と金属が擦れ
 ギュイッ、ギュイッ
 と無意味で耳障りな音が洞窟内に反響する。何回試しても僕の体が浮くだけで、時間と体力だけが消費されていく。
 それから1分と経たずして洞窟の奥から
ギャウン!!
 と動物の断末魔が聞こえたかと思うと、そのすぐ後に
「…………~~~♪ ……~~、~~♪」
 陽気な鼻歌が鉄と鉄のぶつかる音に合わせて聞こえてきた。それは彼女と髪の化け物との決着が付いた事を意味していた。
 見た目の恐ろしさもあってあわよくば狼が勝ってくれないだろうかと期待していたけれど、見た目だけで判断してはいけないのだろう。この屋敷を含めてここにある物の全てが、人知を超えた力を有しているのだから。
 カツカツと近づいてくる足音が、悠然と歩く彼女の姿を想起させる。
 僕は棒を引き抜いて外に響くよう一心不乱に扉を叩いた。出口直前の部屋の中に隠れられそうな場所は無いのは、初めに入った時点から分かっていた。一歩外に出さえすれば逃げる場所はいくらでもあるのに、その一歩が限りなく遠い。
 そして僕がより馬鹿だったのは外に響かせようとした結果、突然鋭い熱が脇腹を襲うまで、彼女の鼻歌と足音が消えたのに気付けなかったことだ。
「熱っ!」
 叩きつけるのを止めて脇腹を確認すると、縦に伸びる黒い染みがシャツに付いているのが確認出来た。染みはじわりとその範囲を広げていく。一瞬それは倒れた際に付いた汚れだと思ったが、視界に血の滴るナイフが見えたと同時に全てを理解し、続けて尋常でない痛みが脇腹から全身へと駆け巡った。
「あっ、いっ……あぁあああああ!!」
 僕の苦悶の叫びが彼女の微笑を掻き消した。
 あまりの痛みに堪らず脇腹を押さえてしゃがみ込み、背後に立っていた彼女に畏怖の目を向ける。彼女はナイフに付いた新鮮な血を一舐めし、恍惚な表情を浮かべぶるりと身を震わした。
 名だたる殺人鬼達のその多くが人肉を食べていたと言う。文明レベルが高かろうが低かろうが、興味関心食料犯罪の隠蔽と称し、人の血肉を体に摂取してきた。かの血の伯爵夫人の異名として名高いバートリ・エルジェーベトは、自身の美貌を保つが為にアイアンメイデンを作らせ、数多の処女を拷問しその血を浴びた。
 目の前に立つ彼女がエルジェーベトではない事は分かる。多分中世ヨーロッパにいたであろう誰かしらだ。残念ながらあの手紙の束の中には「ナイフ」を持つ女性の話は確認出来なかったし、エルジェーベト並の有名人なら僕でもすぐにピンとくる。もし少しでも手紙なりあれば対処の仕方も分かったかもしれないけれど、あくまで可能性の話だ。
 彼女が一歩踏み出し、ナイフを僕に向けて振り下ろす。僕は咄嗟に左手を掲げて守ろうとした。アイスピックを使う時の持ち方で下ろされた切っ先が、人差し指と中指を繋ぐ中手骨の間を何の抵抗も無く貫き、僕は再度大きな叫び声を上げた。彼女はわざとらしく
「Oh!」
と驚嘆してから笑みを浮かべて中腰になり、刺さったナイフで強引に手を持ち上げると、切っ先から零れ落ちる血を喉の奥へと流し込んだ。
 色も相まってアメリカンチェリーを食べているようだ。口に溜まった血を細かく五度程飲み込むと、思い切りナイフを引き抜いた。その速度に合わせて血が噴き出して周囲に飛び散り、僕は扉に倒れこんだ。
 彼女にとってのディナーなのだから、そうするのが当たり前だと言うかのようにナイフに残った血を指の腹で拭き取り、その指をしゃぶる。本来マナー違反であるはずの行為ですら、正統な所作であり淑女の嗜みに思えるほどだ。
 血を奇麗に舐め取ると再び彼女は僕に向き直った。僕の悲鳴と血飛沫が上がり続ける限り、何度もナイフを振り下ろし続けるだろう。チャンスは少ない。痛みを感じられている間にやらなきゃ……。
 鼻歌交じりにナイフを掲げた隙を見計らって、僕はポケットから一枚の紙切れを素早く取り出して彼女の足に貼り付けた。
 その紙は恐らく彼女に関する物だ。彼女がナイフから滴らせた血溜まりにあったからそう思っただけで、本当にそうかは分からない。でももうこれしか残された方法が無かった。藁にも縋る思いで、彼女の動きを封じられると信じて、そう願いを込めて文字が羅列する紙を彼女の脹脛に叩きつけたのだ。
「…………」
 すると振り下ろそうとする手の動きを止め、彼女は貼られた紙を視認し、わなわなと震え始めた。
「no……no……AhhhhhhhNooooooo!!!!」
 腕で自身の体を強く抱き締め全身をくねらせながら、叫び声をあげながら悶えている。
 効果があった。それは僕の心に一縷の望みを与えた。どれだけの時間、どれだけの効果があるのか分からない。でも今しかない。
 僕は再度パイプを手に取り乱暴に扉を叩いた。このパイプで彼女を殴りつける事も考えたが、この期に及んで「女性を殴るなんて」なんて要らぬ見栄らしきものが僕を行動させなかった。それに実際に彼女を殴りつけた所で事態が変わる訳でもないし、紙の効果を邪魔することになるかもしれないとも危惧していたからだ。
「noooooo……ahhhhhhh」
 十回を超えたあたりで彼女の様子も確認しなければと振り向いたが、変わらず彼女は悶えている。ぴくぴくと痙攣さえしている。
「noooooo……ahhhh……ahh」
「……」
 今は右手で顔を押さえナイフを持つ左手でお腹を抱え込んでいるけれど、その悶え方がどうにもおかしい気がする。どこがどうおかしいかと聞かれれば、僕は別に本当か演技かを見る目があるわけじゃないから……演技? さっきからずっと同じ調子で声を上げ、同じ動きばかりしている様な気がする。
 それに……どうして紙を剥がそうとしないんだ?
 僕の視線を感じ取ったのか、顔を押さえる指の隙間から目を覗かせた。
「ahhhh……ahh……aha……ahahaha……Ha! Ha! Ha! Tee hee hee hee!!!!」
 悶え苦しみ身を捩る動きを止め口元を手の甲で抑え、目に涙を浮かべる程の引き攣った笑いを上げ始める。
「笑っ……え?」
 確かに彼女は悶えていたけれどそれはただ笑いを堪えていただけであって、あの紙が効いていた訳じゃなかった。だから剥がそうともせずに悶える仕草だけしていたのか。効かない事もお見通しでなんでそんな事をと口に出そうとして、止めた。
 最初から僕を弄んでいたんだし、多少からかうくらいするだろうと。
「You……you are complete tosser! Tee hee hee ahahahaaaa……It's so funny.There's no way you can use it on someone who doesn't even know who you are, right?」
 彼女が何を話し掛けているのか僕には全く分からなかった。
 所謂中学生英語レベルの会話が出来るか、せめて「ストップ」だとか「ヘルプ」みたいな単語の一つでも言えれば、まだ会話が成立していたかもしれない。あの本の妖怪も話せば分かるやつではあったし、きっと彼女とも話せば時間を稼ぐことぐらいはできたかもしれない。けれど唯一聞き取れた「ファニー」と彼女の様子から僕を馬鹿にしている事は分かったし、この状況でそれ以外に話す内容など無いだろうとも思えた。
 彼女は目尻から流れた涙を拭い
「Duh,cracked me up」
 と呟きナイフを掲げ振り下ろす。これからまた幾度となく切り刻まれる事を想像し、僕は反射的に地面に蹲った。
 これ以上ない屈服の姿勢はさぞかし滑稽に見えるに違いなく、ここにあるどれからも目を背ける様に目を瞑るしかなかった。それは正しく熊に襲われた時の対処法そのものだった。為す術なく耐えるしかない。
「……うわっ!」
 だが血塗られた刃は僕の体に届かずに、中空で弧を描くように掻っ切っていた。
 どれだけ殴りつけても開かなかった扉が開き、気圧差で生じた風によって体勢が崩れたからだ。
 倒れこむ僕をキャッチしてくれたのはゲンさんで、そのすぐ横にはセツさんが険しい顔で立っていた。
「せ、セツさん……ゲンさんもどうして」
「全部後できちんと説明しますから、今はここから出る事に専念しなさい。ゲンさん、継を今すぐ病院まで……継、遅くなって本当にごめんなさい」
 太い腕に抱えられ廊下を戻っていく最中、ベスと呼ばれた彼女の怒号と共に扉の奥に消えていくセツさんが見えた。
 中での出来事を伝えようと口を開いたけれど言葉にならず、人に会えた安心でアドレナリンが切れたのかどんどん意識が遠のいていき、外の日差しを感じた瞬間に完全に意識を失った。
 この時、僕の手に一冊の本が握られている事に、セツさんもゲンさんも、そして僕自身も気付いていなかった。

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