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ライターとして独立を決意した私が東海道380㎞を8日間かけて走り切った話

「名古屋まで走り切るなんてやっぱり無理なのかな」

目の前に立つ「転落の危険あり 立入禁止」の看板を睨んだ時、ランニングウェア姿の私はスタート地点の東京駅から190㎞離れた海上橋の上に立っていた。

右手には土砂崩れの跡が残る急崖がそびえたっていて、反対側の駿河湾を臨んでいる。歩道はすでになくなり、路側帯も数十センチほどしかない。エンジン音を上げて、背後から真横スレスレを次々に通るトラックや乗用車たちが、疲労感でいっぱいの私の心細さに拍車をかけた。

会社を退職しライターとして独立することを決断した私は、この長い旅路に新しい人生への希望を託していた。

ところが、ちょうどこの時、私はまだ静岡駅を通過したばかりだった。名古屋駅までの距離は全体の半分近く残っている。

最大の試練を前にして、私はこの旅を断念するかどうかの瀬戸際にいた。

新しい人生の門出を祝して

気象庁の観測史上最高と言われた夏の暑さは、いくぶん勢いを潜めたものの、ここ最近は、季節の変わり目特有の不安定な天気が続いていた。

10月11日の朝、私は東京駅丸の内北口にいた。

駅舎をバックに、おどけて写真を撮る外国人観光客のカップル、丸の内のビル群を指さしながら歩く若い女性たち、植え込みに腰かけて電話をするサラリーマン。駅前の広場は、平日にもかかわらず多くの人で賑わっていた。

ここに来た目的は、東京駅・丸の内口から箱根、静岡と東海道を通り、名古屋・桜通口までの380㎞をランニングで旅すること。今回、ライターとして独立するという人生の転機を迎え、走り旅という困難に挑戦することにより、その決意を新たにしたいと考えた。

私の前職は水産系の商社でマネジメントに携わっていた。その中で、今年の8月までの2年半、南アフリカ共和国の現地子会社に赴任していた。しかし、今回日本に帰国後、7年半お世話になったこの会社を辞め、ライティングという新しい世界に挑戦しようとしていたのだった。

(スタート地点の東京駅丸の内駅舎)

なぜライターの世界を選んだのか?

実は、私は日本語学校やテレビ局の報道など20代で4回の転職を経験していて、その末に行きついたのが前職だった。

前職では、海外拠点の責任者に挑戦させてもらえるほど様々な機会をいただいた。しかしそれと同時に、任せられる立場が重くなるほど、自分の意に反して”やらなければならないこと”の質と量が変わっていった。

その結果、本社の重役やマネージャー陣、現地の部下、顧客など利害が異なった様々な人間の期待に応えようとして、自ら面白いと思える方向へ進みたいと思っていた本来の”自分の姿”を完全に見失ってしまった。
(役割を与えてもらいながら、こんなことを言うとワガママになってしまうのだが。)

そして、赴任の予定期間だった2年が経過したころ、当初の方針に従い課題をあらかた整理できたと考えた私は、もう一度環境を変えたいと思い、退職を決意した。

(当時の赴任先だった南アフリカ共和国ケープタウン)

再度、”自分の姿”を見つめ直すべくカウンセリングや周囲に助言を求める中で、浮かび上がってきたのが次の3つのポイントだった。

1つ目のポイントは、自分が携わってきた仕事のいずれもが、人々のコミュニケーションに携わるものだったということ。

2つ目は、自分は人の話を聞いたり情報を収集したりするなどして、今まで経験したことがない”新しい世界”に触れるのが好きだということ。

そして、3つ目は、私は自分で自分が嫌になるほどの話下手で、これ以上それを改善させようとするよりも、”書くこと”に集中した方が、効果的かつ精神的負荷をかけずに一定のパフォーマンスを上げ続けられるということだった。

「”人生100年時代”と叫ばれて久しい中、道を変えるなら今しかない」

このようなことを考えた私は、独立して”書く仕事”をやっていくことを選んだ。

走り続けることで自信が得られる

私は広場の中で人がいないスペースに移動し、一つ大きく息をついて、ザックの紐を絞め直した。それから、ランニングウォッチのGPS信号が捕捉されたのを確認し、ゆっくりとその場から走り出した。

丸の内のビル群に守られて、影の中を快調に走る。降り注ぐ太陽の光の強さは10月になっても衰えないが、日陰に入るとさすがに涼しい。皇居前の日比谷交差点から、国道1号線に合流。ここから長い旅が始まる。

(丸の内のビル群)

6年前にランニングを始めて以来、走ることは私の人生をポジティブな方向に導いてきた。

走り続けることで、努力を積み重ねていくという経験が得られた結果、走り始めて5年目に、目標だった100㎞マラソンを完走した。そして、この時に得られた自信は、海外赴任時に業務を全うする原動力になった。

今回の旅で380㎞を走り切ることができれば、人生の転機に際して今まで以上に自信が得られるはず。そのような考えから、今回の挑戦に”走ること”を選んだ。

スタートから約2時間後、多摩川を渡って神奈川県川崎市に入った。

(多摩川大橋)

2つの都県を結ぶ多摩川大橋では日常と違わず、多くの車両が往来していた。しかし、この旅で初めて隣県に入る私は、この何でもない橋を通過するとき、心臓の鼓動が高まるような感じがした。おそらく、新しい世界へと自分を誘う入口であるかのように見えたのだと思う。

横浜駅を通過してからは箱根駅伝とほぼ同じルートを辿る。2日目は茅ケ崎海岸から相模湾に沿って箱根方面を目指した。降り注ぐ日差しを受けて輝く海を見ながら西へ進むと、小田原を経て、箱根湯本に出た。

この2日間で計96.9km、フルマラソン2回分以上の距離を走ったが、この時点では、身体に大きな異常はなかった。

本当の旅の始まり

3日目は、東海道三大難所の一つ箱根旧街道の坂の中腹からスタートした。芦ノ湖がある元箱根まで長さ9km・標高差700mの坂道を上る。

この日は朝から日差しが強かった。しかも、ヘアピンカーブの連続にスタート早々に息が上がってしまう。私は思わず道路を逸れ、日陰を求めて脇道の旧街道石畳に吸い込まれた。車のけたたましい走行音から遮断され、鳥のさえずりと自らの息遣いだけが重なり合う。

(箱根旧街道石畳)

スタートから1時間を過ぎたころで、峠を越えて芦ノ湖に着いた。湖岸で一つ大きく息をついて前を見直すと、芦ノ湖を囲む外輪山の合間から、この旅で初めて富士山が現れた。ここで、この日最大の難所を越えたのだと安堵した。

(芦ノ湖)

標高846mの箱根峠から静岡県三島市の中心部に向け、15㎞ほど坂を下っていく。側道に植えられた木々の間から、市街地を見下ろすことができた。思わず足取りが軽やかになり、ピッチが上がっていく。

ところが、このあと思いもせぬ試練が待ち受けていた。坂を下り初めて数キロして、左の足首にビビッと電流のような衝撃が流れる感じがしたのだ。

初めは気のせいかと思ったが、三島の街に降り立ったころには鋭い痛みに変わっていた。よく見ると、足首の前側が少し腫れていた。これまで経験したことがない痛みに思わず顔をしかめてしまった。

(三島の市街地へと至る下り坂)

連日長時間走り続けるという今までにない負荷がかかる中、下り坂で足首が悲鳴を上げてしまったのだろう。いや、上りの石畳で、気づかぬ間に足があらぬ方向に曲がってしまったのかもしれない。

今日のゴールである富士駅まではあと半分以上距離がある。もしなんとか今日の目標をクリアできたとしても、明日痛みがどう出てくるか分からない。
そんな中一人で悶々としていると、ある言葉がふとよみがえってきた。

「Pain is inevitable. Suffering is optional(確かに痛みは避けがたい。しかしそれを苦しみと捉えるかどうかは自分次第だ。)」

この言葉は、仏教の古い言い伝えという説もあれば、シドニー五輪の女子マラソンで高橋尚子選手と優勝を争ったリディア・シモン選手が発したものともされている。シモン選手の言葉であれば、「痛みや苦しさから自らを分離させ、走ることに集中し続ければ、長い距離でもいつかはゴールを迎えられる」ということだと思う。

もちろん、自分自身を不安から即座に解き放つのは難しい。ただ、今すべきは「”ありのままの自分”を受け入れながらも、目の前の1㎞(いや、数百m)を、無心で繰り返していくこと。それに集中すること」だ。

ネガティブになってもいい。歩いてもいい。ただ足を前に出すことだけを考えよう。そう思うと、沈んだ心が少し軽くなった気がした。

ヨタヨタと走っては歩いてを繰り返していくと、日没前にはJR富士駅に到着できた。この日のノルマだった51.2kmを、なんとかクリアしたのだ。私は改札につながる階段を上り、駅名が入った看板が掲げられている出口を写真に収めると、目の前にあった花壇のブロックに思わず腰を下ろしてしまった。

「リタイアも考えた」この旅一番の試練

4日目は、箱根に続く東海道の難所・薩田峠(さったとうげ)を越え、静岡駅を目指した。

前日痛めた足首は、痛みがかなり引いたものの、まだ腫れが残っている。早くも峠で力を使い果たし、泥にはまったように重い両脚をひたすら動かし続けた。12時過ぎ、静岡駅に到着。東京駅から178㎞、当初予定していた東京・名古屋間の350㎞の半分に行きついた。

静岡に入ってからはのどかなエリアが続いていたため、駅前の雑踏の中に吸い込まれていく感じが少し懐かしかった。とはいえまだ中間地点。達成感というよりも最低限の距離はクリアしたという安堵感のほうが大きかった。

(この旅の中間地点・静岡駅)

今日のゴールである藤枝駅まで残り20キロ。この勢いで走り抜きたいところだったが、この旅最大の試練が待ち受けていた。

なんと、googleマップ通りに進めない道が出てきたのだ!!

googleマップが示したルートは2つ。1つ目は、今いる国道1号をそのまま進んで山側を行くルート。もう一つは、JR線に沿って海側の県道416号経由を行く道。どちらも距離は同じだが、山側を行くルートは坂が多いことから、海側のルートを行くことにした。

ところが、海側のルートから海岸線に出ると、右手側に切り立った崖が現れた。そして、しばらくすると、急崖で行き場を失った県道416号は海上橋へと化した。この時点ですでに歩道はなくなり、路側帯も数十センチほどとかなり狭くなっていた。

(この道、先に進めないんじゃ!?)

海上橋に差し掛かったところから、不安がうっすらと姿を現した。音を立てて真横を通り過ぎていく何台もの大型車が、余計に私を心細くさせる。

さらに数百m歩みを進めていくと、とうとう現れた。「転落の危険あり 立入禁止」の看板が。

(大崩海岸の海上橋 ※写真はフリー素材)

Wikipediaによると、この道路がある大崩海岸という名前は崩落が多いことに由来するのだそう。この海上道路も土砂崩壊を契機に作られたとのことだった。

この時、午後2時半。この日は午後6時から雨の予報だった。あと3時間半で、来た道を引き返し25km進まなければならない。身体が元気であれば、この距離はクリアできる。しかし、この時の私は漬物石を背負ったかのように全身が重く、精神的にも体力的にも、道に迷った分の5㎞を受け入れる余裕がなかった。

(詰んだ……。)

パンクしたタイヤから空気が逃げていくように、身体中のあらゆるエネルギーがシューっと音を立てて抜けていくのが聞こえた気がした。

後で振り返っても、この時が一番リタイアに近い瞬間だった。

ここであきらめたら一生後悔する

「まずはいったん冷静にならなければ」と考えた私は、自分がよく聴くポッドキャストで出遭った言葉を思い返した。

それは「この旅は、自分が走ることが好きだからやれていることなのだ」ということだった。当たり前のことだといえばその通りなのだが、嫌なら辞めて東京に戻ってしまえばいい。

ポッドキャストの配信者は、100マイル(160㎞)にわたるトレイルランニング(山を走るスポーツ)の大会運営に携わっていて、レースの参加者の中には、過酷な舞台を前にしてナーバスになるのか、ルールを遵守しなかったり横柄な態度を見せたりする人間がいることを目にしてきたという。

その中で、配信者は自らがレースで苦しい状況に遭遇した時、「自分が好きなことだからレースに挑戦しているのだ」という思いを抱いて100マイルを走り遂げたそうだ。

(自分もここで好きなことをあきらめれば一生後悔する。やめたくない。)

相変わらず心はポキッと折れたままだった。まずは来た道を引き返さなければならない。私は、脚を引きずるようにして再び一歩を踏み出した。

結局、日没後の17時半、雨が本降りになる前になんとか藤枝駅に辿りついた。芦ノ湖で見た富士山はすでに姿をなくしていた。

「やり切った」と思えたゴール

最大の試練を乗り越えた私は、5日目以降無心で前に進むことに集中できた。もちろん、足首の腫れは残っていたし、どんよりとした疲労感は日に日に身体の奥底に根を張っていく。

それでも、地図の上では自分がすでにこの旅の後半にいて、終わりに向かって少しずつでも近づいていることが確かめられると、前だけを見て歩みを進めることができている感じがした。

(スタートから約300km・愛知県に入る)

この時おぼろげながら生まれてきたゴールへの自信は、6日目の朝に愛知県豊橋市に入ったことで確実なものとなった。名古屋駅まであと80㎞。たとえ走ることができなくなったとしても、歩いていけば間違いなくゴールにたどり着ける。これまでは先が見えない苦しみのまっただ中にいたのに対し、今は必ず成果が得られることが分かっている。同じ”苦しみ”といっても、今体験している感情は格別だなと感じた。

そして、ゴールの瞬間は8日目に訪れた。名古屋市に入った私は、ゴールまであと1km強のところにいた。

名古屋駅前の桜通に並ぶビル群が、強い日差しを遮って影をつくる。その様は、スタート直後の東京駅周辺を思い起こさせた。足を進めるほど、駅の真上にそびえたつJRセントラルタワーズが大きくなり、身体の中から自然と力が生まれてくる。

(写真奥にはJR名古屋駅のセントラルタワーズが見える)

午後3時、ついにたどり着いた。名古屋駅桜通口に。

ボロボロになりながらのゴール。膝は棒のように固まってしまい、足首も動かなくなってしまった。両脚のふくらはぎは破裂しそうなくらいパンパンになっていた。

私は思わず両膝に手をついて、肩で息をした。

(ついにやり切った。)

駅前の交差点を行き交う人々の目を気にして、やや小さめにガッツポーズをした。

駅前はベビーカーを押す母親、銀行から出てくるお年寄りやスーツケースを引いて歩くビジネスマンなど、東海地方の中心地らしく多くの人々で溢れていた。

そういえば、最後に名古屋駅に来たのは6年以上前のことだ。この時私は出張中で、目の前を慌ただしく通り過ぎるサラリーマンと同じくスーツを身に纏っていた。

もし過去にタイプスリップできたとして、当時の自分に「将来、オマエは南アフリカに生活の場を移したのちに、会社を辞め、東京から走ってここに来る」と言ったところで、あの時の自分は絶対に信じてくれないだろう。

この6年の間に予期せぬことが起き、本当に様々な経験を経て今の自分がある。ライティングの分野でも、きっとこれまでに体験したことがない世界が待っているはずだ。

(この旅のゴール・名古屋駅桜通口)

未来につながる380㎞

新居への引っ越しを控えていた私は、その日の夕方にのぞみ28号で東京に帰った。

帰京するにはまだ早いのか、車内は空席が目立った。名古屋を出発してしばらくすると、車内で立て続けにプシュッとビール缶を開ける音がした。一仕事終えて帰京するサラリーマンたちに自分の姿を重ね、つい一人にやけてしまう。

ひと眠りして気づけば、目の前に富士山が見えてきた。3日目に富士山を見ながら三島の坂を下った時に最初の試練に遭遇したことを思い出す。

さらに4日目には、静岡駅を越えたあとに道を間違える、というこの旅最大の試練があった。この時に至った「自分が好きなことはあきらめたくない」という思いを私は改めて噛み締めていた。

(新富士駅付近を通過する新幹線の車窓)

実は、以前請け負わせていただいていた、ある発達障害関連のライティングの仕事が、先方の都合により半ばでキャンセルになった。当時私はかなり気合いを入れ、クライアントの方以上に企画のコンセプトを意識し作業に気持ちを注いだつもりだった。それにもかかわらず、ある日突然、案件の途中キャンセルを伝えられた時は、それなりに落ち込んだ。このショックは大きく、数日の間書く気力を失ってしまったほどだった。

この時、私が立ち直ったのは、「先方のニーズに応えるのと同じくらい、書くことが好きな自分のためにもライティングをやっているのだ。だから、書くことが嫌になったのであれば、辞めてしまえばいい」という考えからだった。

発達障害の分野についてはほとんど知識がなかったが、実際に話を伺いながら記事を完成させていく中で、新しい学びが蓄積されていった。そこで得られた充実感は、たとえ仕事がキャンセルされようとも自分のものだ。

結局、予期せぬ事態を受け入れて前に進めるかどうかは自分次第ということなのだ。

新横浜駅を通過したあと、この8日間を振り返って、一つ”学び”が得られたことに気づいた。それは、事前に結果が予期できないことは、とにかくやってみたほうがいいということだ。

走る前は、フルマラソンの距離を1週間走り続けるなんてことができるのか不安だった。その上、周りのランニング仲間から、今回の挑戦を思い直すよう「ご高説を賜った」ことが、不安を助長させ、私の精神状態は猛烈な勢いで揺らいでいった。

しかし、いくつかの困難に遭遇しながらも、結局は走り切ることができた。ありきたりな表現だが、「結局は何事もやってみなければ分からないのだ」と痛感した。

そのように考えると、今までの成り行き任せだった人生も、意味ある挑戦の連続であるかのように感じられた。そして、今後飛び込むライターという新しい分野においても、ランニングのようにコツコツと努力を積み重ねていけば、予期せぬ道に遭遇できるのではないか、という淡い期待が湧いてきた。

東京駅では、妻がグランスタで私を待っていてくれた。彼女は私を見るなり、「よく頑張ったね。お疲れ様」といつもの柔らかな笑顔を向けてくれた。この労いの言葉が、これまで漠然としか感じられなかった達成感という感情に、確かな輪郭を与えてくれた。

これにて合計走行距離379.2km・走行時間46時間10分、8日間におよぶ旅は幕を閉じた。

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