おとなになるということは

バイト先のオーナーが「気持ちは生もの」てよく言うんだけど、それ今までは「鉄は熱いうちに打て」みたいな意味合いかなった思ってた。
けど今日ふと解釈が違って、なんとなく「喉元過ぎれば熱さ忘れる」のニュアンスかなって思った。

喉元過ぎれば〜の諺は苦しみを忘れるって意味だけど、それが喜怒哀楽どれでも、そのとき感じたことは時間が経てば忘れてしまうってことなんじゃないかな。

どっちのニュアンスが正解なのか聞けばわかるけど、明日の私がオーナーにそれをわざわざ確認するかは明日の私しか分からない。

私然り、人間っていうのは忘れる生き物で、どれだけ腹をくくっても覚悟をしても、少しのきっかけでそれが瓦解することなんてザラだし、そうしたからといってそれ自体を責めるのはできない。

私が今まで物語を書いてたのは、自分の中の消化しきれない感情とか、他人に話すのには面倒でやりきれない想いを物語を書くことで昇華していて、でも大人になるにつれてそういうことに対しての割り切りが上手になってしまったように感じる。

なにかいやなことがあっても、家事育児仕事で忙しくしてるうちに忘れることもあるし、手っ取り早く寝て忘れようとするのも増えた。
実際その方が日常っていうのは円滑に進むんだなって不本意ながら実感した。
そうしてるうちに生ものの気持ちは腐っていつのまにかどこかにぐしゃぐしゃになったまま捨てられてる。

最近また私が文章を書くようになったのは、育児の孤独や離婚のしんどさと今の彼との幸せな記憶とかを忘れたくないからかも知れない。

ゲロを吐いた同級生も、墨汁の匂いのする新聞記者も、チェーンの外れたチャリを引く少年も、せっかくここまで覚えていたのだからこれからも忘れたくない。
たまに覗いて懐かしがる、ガラクタいっぱいの宝箱みたいな、ぜんぜんキラキラしてなくていいから、そのときの私や周りのみんなが一生懸命生活してたっていうのを忘れたくない。

きっと今後、娘が大きくなったら小さかった頃の愛おしさなんて薄れてしまうのだろうし、実際いまも目の前の育児に追われて新生児のころの無力な娘の記憶なんて遠い彼方だし。

彼との付き合いが長くなればなるほど、今の楽しいだけの記憶とか、どういうふうに愛情表現をしてくれたのかとかきっとお互い思い出せなくなるだろうし、そういうときに、まだ新鮮な気持ちで書いた記録を読み返したい。

長く生きるにつれて、守るものが増えるにつれて、自分以外の存在で悩むことも増える。
私は私の大切なひとに、今はとにかく娘の彼に対して思いやりを忘れたくない。
忘れないために、気持ちが新鮮なうちに書く。

時が経っても忘れないために、経験を糧にするために。

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