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三浦春馬君オススメ本「メソード演技」を読んでみた。

せっかく読んでみたので、私の備忘のために書き留めておこうと思う。
この記事には、この本の内容のサマリーはそんなに出てこないし、読んで感じたこと、考えたことだけを書き連ねていくだけで、大した盛り上がりも何もないし、あと、やたらに長い(特に前置き)ので、そういう感じで読み流して頂けたらありがたい。

読もうと思ったきっかけ。

先日、映画「アイネクライネナハトムジーク」の記事を書いた。

その記事内でも触れたのだが、春馬君は、どこにでもいそうな「佐藤」という役柄を演じるにあたって、動物の身体的特徴を演技に取り入れるということをしたらしい。
「メソード演技法」とは、ロシアの演出家、スタニスラフスキーが確立した演技方法論らしく、その動物の身体的特徴を演技に取り入れるというのも、どうやらその「メソード演技法」の一つの方法らしい、ということのようだ。
その「メソード演技」について書かれた本のことを、春馬君自身が、人生を変えた本として紹介していた。
しかも幾つものインタビュー記事で。

その本を春馬君が読んだのは、春馬君が、2015年5月に舞台「地獄のオルフェウス」を演った頃か、その少し後ぐらいのこと。
この本から彼が学んだ演技方法については、「アイネクライネナハトムジーク」で活かしただけでなく、「罪と罰」では蛇の動きを取り入れたとはっきりとテレビで本人が語っていたし、恐らく、2015年後半以降の彼の演技に、この「メソード演技」の影響が結構反映されているのではないかと思われる。
常々、春馬君の出演作を観ては、彼の役作りの仕方に強い関心を持っていた私としては、そもそもその「メソード演技」って何よ?っていう疑問に行きつく。
私は、演技をする人を観るのは好きだけれど、演じてみたいと思ったことは一瞬たりともなく、これまでこの手の、演じる側のテクニックに関しての知識は得たことがなかった。

様々なインタビューで「メソード演技」のことを春馬君は語っていたようで、以前からのファンの方の間では、既によく読まれている書籍なのかもしれないと思った。
だから、できれば「メソード演技」をお読みのどなたかが、「メソード演技」とはなんぞやと分かりやすく要約してくれた上で、その演技法を取り入れたと思われる春馬君の演技について、これまたわかりやすく解説してくれたりしてると良いのだけど、だって、自分の労力はそんなに割かずに、私の知的好奇心を良い塩梅で満たしてくれそうで丁度良いしね、とネットの世界を血眼で探し回ったが見当たらなかった。
案外、読んでいる方は少ないのだろうか。
お読みになった方、いらっしゃるだろうか。

「メソード演技」買ってやったわ。

こうなれば、もう自分で買って読むしかないかと思い、Amazonを見てみると、なんと新品の取り扱いが無い。

だいぶ昔の本らしく、現在では絶版になってしまったっぽい。
中古本にも関わらず希少本なのか、定価をはるかに上回る値段が付いてしまっている。
そのコンディションにもよるが、Amazonでも結構良い値段だ。
他にも色々調べたけれど、この本を読むには、図書館で借りるか、中古書店で買うか、あとはメルカリみたいなフリマアプリで買うしかないっぽい。
私は、服でも何でも中古品は苦手で、出来れば何でも新品が良いのだが、この本ではどうやら無理っぽい。
また、「メソード演技」に関しては他にも本は出てるけど、やはり私は春馬君が読んだ本を読みたい。
しかし、レビューコメントを読むと、「とっつきにくい」などと書かれており、全くの演劇のど素人が読み切れるか自信を失い、購入を躊躇する。
この本は日本語に翻訳されたもの、つまりはオリジナルが別にあるわけで、そっちはちなみに幾らなの?と調べたら、こんな感じ(▼)で、日本語版に比べればだいぶ安い。

これなら挫折してもそんなに痛くはないかとも思ったが、ちょっと待て、日本語ですら「とっつきにくい」と書かれているのに、英語だったら専門用語バリバリでもっと読みづらいのではないか?無理じゃね?と思い、元に戻って日本語版をえいっ!と腹を括って購入するに至った。
私、役者でも何でもないけど、ただ春馬君が読んだ本を私も読んでみたいという一心だけの、その私自身の執着が自分でも怖い。
恐らく、この本の入手のハードルの高さが、ファンの方々の間に広まりにくくさせている一因なのかもしれない。

イライラしながらも、嬉しく読み進める。

英語版のオリジナルは1966年に出版、そして、この翻訳版の初版は1978年に発行されている。
読み進めるも、その時代の言葉遣いだからとか、私に演劇の予備知識がゼロだから、私に日本語読解能力がないから、ということもあるかもしれないが、何とまぁ、読みづらいことよ。
この本は文学ではなくて、演技のHow-To本なわけだ。
にもかかわらず、行間を読めと言わんばかりの婉曲な表現の数々。
オリジナルからしてそうなのか、日本語に訳したらそうなってしまったのか知らないが、役者を志す者ならば書いてあることの向こうにあるスピリットを読み取れということか。
空気読めか!
短く言うと、読んでも読んでも、全然頭に入ってこない文字の羅列。
「とっつきにくい」と書いてあったのはこのことね、と思うも、えー、これで全部読むのって苦行ではないか。
分野は全く違えど、私の仕事の半分ぐらいは「書くこと」で、簡潔明瞭、誰が読んでも分かるような記述を心掛けている者としては、この書って何でこんな不親切なの?ストレートに書きなさいよ、と思い始め、「垣 公華子、んーじゅーんー歳、んーじゅっ歳を過ぎた頃からイライラする!」と往年のいとうあさこのギャグを思い出しながら、イラついてきてしまう始末。
中に、数カ所だけ、例えば、「体得(Personalization)」と「おきかえ(Substitution)」というように、英語も一緒に書かれたところがあったのだが、「Personalization」と聞けばイメージが沸くが、それを「体得」と訳されては、私にはすぐには意味がわからない。
よっぽど英語で読んだ方が、ストレートに意味が理解できて良かったかもしれない。
訳され方が、私の感覚と合わなかったのかもしれない。

話はずれるが、私は「書くこと」は好きなものの、「読むこと」はそれほどではない。
子供の頃なんて、読書感想文の宿題も、読書するぐらいなら自分で架空の物語を作った方がマシと、その架空の物語の感想文を書いて提出したことがあるほどだ。
それくらい、もともと読むのは好きではないのに、輪をかけて読みづらくもあり、正直なところ、読みきる自信が全くない。
しかし、春馬君が何度も読んだという本ならば、その苦しみを受け入れるだけの十分な動機になり、苦手な文調にも何とか食らいつく。
自分で自分に辛いことを課してる私って?やっぱり精神的マゾヒストなところあるわ~、なんて妙な納得をしてしまう。
読み進めのスピードは自ずと遅くはなるが、春馬君が読んだ文章を私も追いかけ読み、彼が辿った思考回路を私も辿っていく感覚を味わうのは嬉しく、また、日常生活では全く関わり合いのない、別世界である演劇の知識を得ることは、海外旅行をしたときにも似た大きな気分転換にはなり、その意味では楽しかった。
そして、せっかく買った本なので、余すところなくしっかりと理解したいし、忘れないようにしたいと思い、ノートなんぞを取って、要点を整理しながら読み進めた。
それくらいの気合も入れて行かないと、読めない。
何度も言うが、私は役者ではないし、演じたいと思ったことは一度もない。
ここまでするのも、ただ、春馬君の頭の中身を知りたいという一心だ。
思考回路ストーカーとでも言おうか。

「メソード演技」ってさ。

この本の裏表紙にはこう書かれている。

マーロン・ブランドはあの「波止場」の壮絶なラストシーンにどう取り組んだか?もはや世界的なスターであったマリリン・モンローはアクターズ・スタジオに何を求めたか?ジェームス・ディーンの抱えていた役者としての問題とは?「十二人の怒れる男たち」「セールスマンの死」などの名演技はどのように生み出されたか?興味あるエピソードで語られる演技の実際例。何が人に共感を与え、感動に導くのか。役を生きる術とは。演技における真実感とは。具体的に、実践的に語られる演技についての方法。もっとも今日的な、全映画人・演劇人必読の書。

もうこれだけでも、なんのこっちゃだ。
言うほど具体的に書かれてないと思うのだが、それはさておき、この書の中でも書かれているように、メソード演技は演技方法の唯一の方法でもないし、最高、最善の方法でもない。
メソード演技を身につければ、全ての役で素晴らしい演技ができるようになるなんていう、万能薬でもない。
また、メソード演技は一度身につければ完成というものでもなく、永遠に試行錯誤を繰り返しながら、最高の演技を模索していくプロセスでもある。
観客(視聴者)の心を動かすことができるような演技をするには、舞台上(スクリーンやテレビ画面の中)に、観客が感情移入できるようなリアリティを作り上げる必要がある。
直感的にすぐに出来る人もいるだろうが、役者がそのリアリティを作り上げるにも幾つかのコツが要る。
そのコツについて、この本では縷々書かれているわけで、春馬君の言う、動物の身体的特徴の話もそのコツのうちの一つだ。

役作り関する多くの気づき。

例えば、よく、その「役になりきる」と言ったりするけれど、その役になりきるというのは、役者の自己を捨てきって、そこに新たに役柄を入れ込むようなイメージ、つまりは、人格の総取り換えみたいなことが起きていると私は想像していた。
しかし、メソード演技でいうところではそうではなく、演じるのは「自分」であるのだから、その役柄と自分との同一性を見出す必要があるということらしい。
「舞台で自分をなくすべからず。」
役の中に自分を見つけられない役者は、自己をコントロールしきれない。
なるほどね。
例え、実生活で経験したことのないような感情を表現する場合や、役柄と自分がかなりかけ離れていたりする場合でも、自己の過去の経験から似たような感情を引っ張り出して、自分と役との共通項を見つけ、そこにある感情を増幅させる必要がある。
その増幅した感情を全身を使って表に出すことによって、リアリティが生まれるというわけだ。

春馬君はこれまで沢山の役柄を演じてきた。
二つとして同じ三浦春馬はいない、見事な演じ分けを行ってきて、「カメレオン俳優」とか「憑依型俳優」なんて称されることもあったみたいだが、全部が全部異なるように見えたその役柄の奥底では、「三浦春馬」という同じ核から生まれた感情で全部が繋がっていたのだ。
これまで何となく、その表面だけを眺めて理解していたように思っていた、役者の演技というものの成り立ちのロジックをこの書から学び、すんなり腑に落とすことができたし、目から鱗が落ちたような気がしている。
あの「TWO WEEKS」の撮影時にしていた春馬君の行動は、きっとこの本からヒントを得て、自分の感情を引き出して、役作りに役立てようとしていたのではないかと推察する。

メソード演技の訓練をした役者たちには、役作りの過程で、感情という内面の動きを分析する作業に没頭するあまり、理屈っぽくなる傾向があるらしい。
自己の感情にフォーカスするからだろうが、意識だけで演技をしてしまい、周囲の状況を取り入れたり、体全体を通じての表現がおろそかになることもあるのだとか。
それはそれで、リアリティが欠如してしまう。
春馬君の「アイネクライネナハトムジーク」での撮影時に今泉監督から「相手をちゃんと使ってください」と言われたというエピソードがまさにこれで、メソード演技の手法に囚われすぎて、演技を自己完結にしてしまいがちになるというのもうなづける。

演技で一番やってはいけないのは、「まね」だ。
例えば、実在した人を演じる場合や、脚本の求めている役柄の性格にぴったりな人が身近にいたなどした場合も、その人自身に扮してはいけない。
「まね」をするということは、その役柄に対しての役者自身が共感したり、学んでいたり、訓練したりすることが欠けているという証拠だから。
例えば、春馬君で言えば、実在した人物では、最近だと五代友厚や徳川家康(松平元康)あたりの役で、色々と史実に基づいて研究はしただろう。(徳川家康の方は、「ブレイブ」の原作が漫画なのでどこまで深堀りしていったかは、まだ観ていないからよくわからないけれど。)
しかし、演技においては、その学んだ史実に基づき、忠実に再現すればよいってことでもない。
また、これらの実在した人物は、大抵が既に多くの役者に演じられている役であって、ディーン・フジオカみたいに、五代友厚が当たり役なんて言われた人もいるわけだ。
決して、その実在した人物を演じる他の俳優の「まね」になってもならない。
他の俳優がどういう手法を用いて、その実在した人物の役作りを行ったか、そこは参考にしても良いだろうが、その演技自体は「まね」になってはならない。
「まね」が混じると、演技から一気にリアリティがなくなるからだ。
恐らく、春馬君もその辺りは非常に気を付けて、演じる時に、自分自身を使いこなすことに注力したのだろうと思う。

「メソード演技」のコツには、「リラックス」「集中」「五感の記憶」「理由づけ」等など名づけられた手法が色々ある。
演技が役者の肉体動作を伴って表現される場合に、その動作には「五感の記憶」によって「理由づけ」されることを確かめる必要がある。
この本を読まないと、これらの用語の意味合いがよく分からないとは思うが、平たく言えば、人の性格、生い立ち、生活習慣でも何でも良いが、人の動作一つ一つにはその人の人生が反映されるようなものだから、役者の演技上の動作も同様で、どうしてそのような動作になったのか理由や意味があるはず、という考え方だ。
理由に裏付けされた動作は、リアリティを生むからだ。
ここで私が思い出したのは、「コンフィデンスマンJP ロマンス編」と「銀魂2 掟は破るためにこそある」。
それぞれの作品の中で、春馬君が特徴のある動作をするシーンがあるのだが、きっとあの動作には、春馬君なりに考えたその役の人柄を反映させていたはずだ。
春馬くんの出演作をまた見返して、春馬君がどういう理由を思いついてその動作をするに至ったのか、私もよくよく考えたい。

メソード演技では、与えられた役がどんなに小さかろうと、大きい役に対するのと同じ熱意で取り組むべし、と説いている。
役が大きかろうと小さかろうと、出番が長かろうと短かろうと、メソード演技の役作りのアプローチの仕方としては同じなのだろう。
上で挙げた作品以外にも、恐らく、春馬君は役作りに、メソード演技の手法を使っている可能性が大いにあるように思う。
映画やドラマなど、ストーリーに沿って普通に見ていくのも、それはそれで楽しいし、これまでもこれからも、その視点で私は作品を見ていくだろうが、それに加え、役者個人の演技だけに注目して作品を見ていくのも、それはそれで面白いと思った。

メソード演技を知らなくても、良いっちゃ良い。

恐らく、メソード演技に限らず、こうした演技の理屈をわかっていなくても、直感的に自然と心揺さぶるような演技ができてしまう役者もいるだろう。
例えば、三谷幸喜作品における香取慎吾や、宮藤官九郎作品における長瀬智也あたりは、脚本を読んで、監督なり演出家なりが少しアドバイスをすれば、的確かつ直感的にその役を捉えて、ハマった演技ができているような気がする。
香取慎吾に関しては、朝日新聞での三谷幸喜の連載「ありふれた生活」の記述から、また、長瀬智也に関しては、今、放送中のドラマ「俺の家の話」やこれまでの彼の演技、また、素の彼の様子からそう感じるところなのだが、もし私の見当違いだったら申し訳ない。
たぶん、香取慎吾も長瀬智也も、自身が表現者である自覚はあるだろうが、役者である自覚はあまりないだろう。
だから、そんなに緻密な役作りなんてしていないのではないか。
特に長瀬(愛を込めての苗字呼び捨て)に至っては、長瀬が演技のロジックをわかっていようがいまいが、ぶっちゃけもうどうでもよい。
視聴者である私の心は、「俺の家の話」の長瀬の演技によって、毎回、笑いに泣きに大いに揺さぶられている。
その事実が全てだ。
長瀬と「俺の家の話」の話をしだしたら山ほど語れるのだが、春馬君以外の話は違う所でアウトプットしているので、ここではこれくらいにしておく。
でもこれだけは、ここでも書きたい。
長瀬~~~~~~~~~~~~~~~っ!(惜別絶叫)

長瀬との別れを目前にして、私は今やセンチメンタルジャーニー中である。
話は戻って、長瀬のような勘の良い、「天才肌」ともいえる役者には必要のないことかもしれないし、春馬君が「天才」ではないと言いたいわけでもないが、メソード演技のような方法論を学んでおくことは、役者として演技に迷ったときの拠り所になりうることなのかもしれないと思う。

演技とは。

このメソード演技というのは、役者にとってはわりとメジャーな演技方法論らしく、もしかしたら、学校の演劇部や劇団等々では、皆が学んで通るような基礎中の基礎の方法論なのかもしれない。
春馬君の場合、それまで演技論を勉強したことがなくて、この本を読んで開眼させられたのがすごく嬉しかったのだろう。
その気持ちはわかる。
おすすめの書とまで言うくらいに、色んな所でこの本から学んだ方法を取り入れていると春馬君は嬉々と話していたようだが、実は、日本の演劇界の多くの俳優たちも、そう多くは語らずとも、メソード演技を学んだことがある人はいるだろうし、日々の演技に取り入れている人も沢山いるのだろう。

「演じる」ということは、簡単なことではない。
以前から思っていたことではあるが、この本を読んで益々そう思った。
メソード演技を取り入れてもいなくても、役作りに相当の時間と労力をかけて取り組む。
時には自分の過去を振り返り、苦しい感情を掘り出しもするし、それによって心身共に消耗することもあるだろう。
私たちが、今も見ている演技というのは、演技という行為の最後の最後に表に現れた部分であって、それまでの間に、役者はその内側、外側で、膨大な思考や作業を行っている。
それほどまでのことをして、日々、私たちを楽しませてくれているということだ。
頭の下がる思いだ。

にしてもだな、春馬君はこの本を繰り返し読んで、メソード演技の手法を演技に取り込んでいったというのだから、本当に真面目、その一言に尽きる。
この本から得た知識を、彼自身が実践的に色んな作品の中で試していった。
春馬君のその姿勢は、実に素晴らしいことだと思う。
時には巧くいっただろうし、時にはそうでなかっただろうし、一喜一憂しながら、役者として、より一層、高みにある演技ができるよう進んでいこうとしていたのだろう。
私自身、完璧にこの本の内容を理解できたわけではないとは思うが、一通り読んでみて思うのは、今なら、もっと私も春馬君の演技を上手に受け止めて、もっと深く理解できるような気がしている。
それが、今になってしまったことが非常に悔やまれる。


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