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【読書感想文】『有頂天家族』のおもしろさ

数年ぶりに有頂天家族を読んだので、どこにこの小説の面白さを感じたのかをゆるりと書いていきます。

感想文なのでネタバレもありますので、未読の方でネタバレを目にしたくない方はお気をつけください。

本作の魅力の一部は『地の文がおもしろい』の項に引用した本編のワンシーンが最も伝わりやすいかと思いますので、そこだけでも読んで頂けたら幸いです。

一長一短の個性を持ち合わせた下鴨一族の面々

本作には様々なキャラクターが登場しますが、下鴨一族に関してはそれぞれの長所と短所がはっきりしており、そこがシンプルなんだけども奥深くて親しみを感じるところだなあと思います。

矢一郎→真面目だけれど土壇場で弱い
矢二郎→やる時はやるけれど基本的に怠け者
矢三郎→器用に色々とこなすけれどトラブルメーカー
矢四郎→純粋だけど臆病
母上→愛情深い肝っ玉母さんだけれど雷が大の苦手

強みもあれば弱みもある。
だから、弱みは助け合って補い合って打ち消して、強みを活かして乗り越える。

そういった人と人のつながりの中でも理想と思えるような素敵な関係性をこの家族は築いていて、そこが感動するところであり、心温まるところなんだと思います。

やや脱線気味になりますが、矢一郎の登場直後に繰り広げられた、彼の土壇場での弱さがよく分かるセリフを本作より引用して紹介したいと思います。

p.94
「矢一郎は同志社大学の方面を探せ。おい、分かったか? あ、矢一郎は俺か。かまわん、俺が同志社の方を捜す。矢三朗は鴨川の北を捜せ、矢四郎は橋の向こうだ。それから、ええい、鴨川の南を矢三朗が捜せ。しっかりやれ」

出典:有頂天家族

すぐに矢三朗にツッコミを入れられるのですが、この矢一郎のセリフは矢一郎の焦りっぷりと、焦った時の判断力の無さがよくわかるもので、親しみを持って笑える、好きなセリフです。

京都の町で狸が人のように生きているところ。現実とファンタジーの交錯感

京都の街って不思議な魅力があると思うんですよね。
古都京都、山に囲まれた平地に、碁盤の目のような街の区画。
そこに古くからある建造物が点在している街並み。

この街は、それ自体がファンタジー的というか、誰かが考えた物語の舞台みたいに思えてきます。
京都だったら、人に化けた狸たちが人に紛れていてもおかしくないのでは?
そんな風に思える雰囲気が京都にはあると感じます。

そこで繰り広げられる人と狸と天狗たちの絡み合いが描かれた本作。
登場キャラクターが街のイメージに非常にマッチしていると感じますし、その噛み合いが本作の魅力の一つなんだと思います。

地の文がおもしろい

これは森見さん作品あるあるなのですが、地の文がおもしろいです。
好きなシーンの一部を引用して紹介したいと思います。

p.89
(前略)
毛玉になった銀閣の尻を甘嚙みしたまま、長兄が大きく首を振ると、銀閣は街頭の投げかける白い光の中をよぎって宙を舞った。「飛んでるよ!」「誰か受け止めて!」と宙を舞う毛玉はわめいていたが、やがてぽちゃんと疎水の水の跳ねる音がして静かになった。

そのままどこへなりとも勝手に流れてゆけと私は思った。
弟の銀閣が遥かなる大洋を目指した今、金閣は腹をくくったらしい。(後略)

出典:有頂天家族

このシーンは矢一郎が銀閣の尻を噛み、疎水に投げ飛ばすところなのですが、宙を舞いながらわめく銀閣、それを「宙を舞う毛玉」と形容するところ、そしてその銀閣を「遥かなる大洋を目指した」と説明調に書いているところがおもしろいと思いました。

銀閣は不本意に水に投げ込まれたのに、自らの意思でそうしたかのような書き方をされていて、事実とコミカルな主観の混じった描写が好きなワンシーンです。

他にもおもしろい文章はたくさんあるのですが、一つ一つ書いていくと大変なことになってしまうので、今回は控えておきます。

矢三郎と赤玉先生の先刻ご承知済みの関係性

矢三郎と赤玉先生の関係性もおもしろいなあと思います。

赤玉先生が矢三朗より偉く、尊敬の念を寄せられ、厚く遇されるのが当然。
そういった価値観は二人とも根底に持っていて、平時はそのようにやり取りすることも多いのですが、赤玉先生がワガママを言っている時に矢三朗が宥めたり怒ったりするところが、頑固おやじと息子のケンカのようでおもしろいです。

矢三朗は赤玉先生とよく顔を合わせていることもあり、先生のことをよく知っています。
また赤玉先生も赤玉先生で、矢三朗の考えていることをよく理解しています。

二人はお互いの真意をよく知っていながら、時にはそれを知らないかのように話す。文中ではこれを「先刻ご承知済み」と言っていますが、この関係性がおもしろいですね。

この先刻ご承知済みの関係の発端は「魔王杉の事件」というエピソードだと矢三朗が語っていました。

お互いに相手の思いを察していながら、相手の胸中を思って、あるいは自身のプライドから、それを話さない。
けれども自身の考えを相手が分かっているという確信めいたものを前提に、お互いに話を進めていく。

これは相手へのある種の信頼があるからこそ成り立つ関係性であり、真意が本人たちにしか分からない会話が生まれ、それがこの二人のやり取りを面白くしていると感じます。

「赤玉先生は口ではこう言っているが、本心ではこう思っているはずだ。」というような矢三朗の読解を聞いて、読者としては赤玉先生の発言と真意のギャップに親しみやおもしろさを見出すわけです。

家族などの親しい人に憎まれ口をたたいてしまっても、心のどこかで相手を大事に思う気持ちはあるし、相手もそれを分かってくれているという状況は現実世界でも間々あることかと思います。
矢三朗と赤玉先生の関係性には、それに近しいものを感じます。

納涼舟合戦、偽叡電が街を疾走するシーンの視覚的なおもしろさ

・五山送り火の日の夜の、空に浮かんだ2つの納涼船の花火の打ち合い。
・物語終盤に矢二郎が叡電に化けて街を疾走するシーン。

この2つは本作の中でも特に視覚的な楽しさがあるところでした。
情景は文字で描かれているので、景色は読者の頭の中でそれぞれに想像されるわけですが、自分の頭の中では非常に愉快で躍動感のある映像が浮かんでいました。

納涼船合戦のシーンでは、五山送り火を映像の背景とし、空飛ぶ四畳半、大きな船から煽ってくる夷川、応戦する矢三朗と母上、飛び交う花火、風神雷神の扇を振るう矢三朗、吹っ飛んでいく夷川の船。
こういった情景が脳内で描かれておもしろかったです。

街を走る偽叡電のシーンでは、京都の街中を疾走する偽叡電、中でごちゃごちゃやっている矢三朗と矢四郎と金閣銀閣、商店街の様々な物を吹き飛ばしながら快速で進む偽叡電、ウォータースライダーから猛烈な勢いで射出される人のように鴨川へ飛び出す偽叡電、川沿いの料理屋に突っ込む偽叡電。
このシーンの叡電の疾走感、電車が勢いよく空に飛んでいく躍動感がとても痛快でした。

ここまでの躍動感のある描写は他の森見さん作品ではなかなかない、有頂天家族ならでの楽しみポイントだと思います。

悪態をつきながらも愛のある海星

海星というキャラクターが自分はけっこう好きで、口は悪いけれどなんだかんだで相手のことを思いやっている、そんなところがいいなあと思います。

海星自身は金閣銀閣のことを「馬鹿兄貴」呼ばわりするけれど、矢三朗が彼らを「馬鹿」と言うと、「兄貴たちを馬鹿にしたら承知しねえぞ」と怒るところなんかがその象徴的なシーンかと思います。

口では悪態をつきながら、実は相手のことを思いやっている。
なんだか少し赤玉先生と似ているタイプな気がします。
と思ったけれど、赤玉先生が誰に対しても口が悪いのに対し、海星は家族と矢三朗に対してしか口が悪くならないようなので、似ているようで大きな違いがありますね。

・赤玉先生は(弁天を除き)誰に対しても傲慢に振舞う性格、海星は親しい間柄の人間には口が悪くなるが基本的にはいい子(多分)。
・基本的に傲慢な赤玉先生と、基本的にいい子(多分)な海星。
・愛する相手には優しくなる赤玉先生と、愛する相手には厳しくなる海星。

こうやって対比させてみると面白いですね。
両者ともに自分の好きなキャラクターだけれど、思ったより、似ているようで似てないのかもなあ、なんなら部分的には逆の性格と言っても過言ではないのかもなあと、これを書きながら再確認しました。

まとめ

有頂天家族がどんな小説かと聞かれたら、「人の社会に溶け込んだ狸を中心に繰り広げられる、どこか阿呆な空気が一貫してあるファンタジー小説」という感じかなあ、などと思いました。

ですがそんな言葉で表すには足りないくらい、もっとわちゃわちゃしていて、時には心に迫る切ないシーンや感動できるシーンのある、本当に濃密な小説だなと思います。

本作を一言でどういったものか形容し、その全貌を上手く簡潔に伝えることはなかなか難しいのではと思うくらい、様々な要素が詰まっています。

このページをたまたま開いたけれど本作をまだ読んでいない方で、阿呆な面白小説が読みたい方がもしいらっしゃいましたら、本作は大変オススメです。

続編である有頂天家族二代目の帰朝もそのうち再読しようと思うので、もしかしたらそちらの感想も書くかもしれません。

では、ここまで読んでいただきありがとうございました。

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