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江國香織の「一度出会ったら、人は人を失わない」について思うこと

僕は江國香織と角田光代という作家が好きだ。


だいぶ前、江國香織、角田光代、井上荒野
という直木賞作家たちによる会合が、
せんだい文学塾にておこなわれた。


僕は一瞬で参加を決意し、
ど田舎から仙台まで新幹線で向かい、
そして、この目で実物を見た。

すごかった。

何がすごいとか言えないくらいに、本当に圧巻。

ずっと会ってみたかった。


江國香織のサイン入りの書籍は、
今も本棚に大切に収納してある。

帰り、江國香織が外の喫煙所で煙草を吸っていた。

僕はその姿を遠くから見て、涙が出そうなくらいに感動した。

江國香織はよく作中の中で煙草を用いている。

僕はだいぶ食らっていた。

そんな江國香織の作品で、
『神様のボート』という本がある。


その中で好きなセリフがタイトルにある言葉である。


「一度出会ったら、人は人を失わない」


僕たちは、一度会えたら永遠に別れることはないという。

途方もない距離が二人の間に生まれても、死が二人を分かつとも。


本当にそうなのだろうか?と当時ぼんやり思っていた。


人は人を失う。

僕も大切な人を失ったとき、より一層この考えを持つようになっていた。


人は人と出会い、いつか必ず失う。

だったらなぜ会うんだろう、なぜ会い続けるんだろう、と疑問だった。

どうせ失うなら、会わなきゃいいとさえ思った。


でも、今なら思う。

一度出会ってしまったら、本当に、
人は人を失わないのではないか?

というか、失わないということを信じていたいな、と。


『神様のボート』は旅を続ける母と娘の話で、
お互いの視点で交互に描かれている。


母親は、愛する人(娘の父親)がどこにいても
必ず迎えに来るという約束を信じていている。ずっと。


16年という時間をいろいろな場所で過ごすが、長くは留まらない。


その場所に馴染んでしまうと、
「あの人」が来ない事を認めてしまうような気がするから。


夢を見続ける母親と、
その母親の世界から徐々に離れていく娘。


繊細な視点が交互に描かれている作品である。


「一度出会ったら、人は人を失わない」

というのは、
作中のなかの母親のセリフであり、
そこには絶望に近い希望が垣間見えている。


今、たとえ一緒にいることはできなくても、その人がここにいたらと想像することはできる。

その人がいたらなんと言うか、どうするのか。

それを考えるだけで勇気がわいて、一人でそれをすることができる

という。

僕らは出会いと別れを繰り返している。

物理的にもう二度と会えない人も、生きてる年数分だけ現れてくる。


また会いたい人もいる。

でも二度と、二度と会うことができない。


そんなとき、僕らにとっての救いはなんなのだろうか?


それは、

「一度出会ったら、人は人を失わない」

ということを、
理解できなくても、一瞬だけであっても、
信じることなのかもしれない。


失うことばかりであっても、
本質的には失っていないと信じたい。
信じ続けていきたい。


また、もう一人好きな作家・角田光代の
『対岸の彼女』のあとがきでこんな言葉がある。

これも大好きな言葉で、もうずっと、何度も救われている。


ちなみに、このあとがきは、
森絵都という女性作家が書いている。

人と出会うということは、自分の中に出会ったその人の鋳型を穿つようなことではないかと、私はうっすら思っている。

その人にしか埋められないその鋳型は、親密な関係の終了と同時に中身を失い、ぽっかりとした空洞となって残される。

相手との繋がりが強ければ強いほどに空洞は深まり、人と出会えば出会うだけ私は穴だらけになっていく。

けれどもその穴は、もしかしたら私の熱源でもあるのかもしれない。

時には仄(ほの)かに発光し、時には発熱し、いつも内側から私をあたためてくれる得難い空洞なのかも知れない。


『対岸の彼女』は、

「多様化した現代を生きる女性の、友情と亀裂を描く傑作長編」

とされているが、

本編を読んだあとにこのあとがきを見ると
グッとくるものがあった。

人と出会うということは、
自分の中に出会ったその人の鋳型(いがた)を穿つ(うがつ)ようなことである。

なんて高度な表現なのだろう。


このあとがきを読んだ瞬間、
江國香織の『神様のボート』を思い出したのだ。

「一度出会ったら、人は人を失わない」のセリフを。

僕らは、表面的には
人を失っているように見えるけど、
実際のところ、やっぱり失ってはいないのかもしれない。


僕の中にも、たくさんの鋳型を穿たれた跡、
それは空洞となって存在していたことは分かっていた。


それは暗くて深くて、無意味で、
哀しいだけの空洞だとずっと思っていた。


相手との繋がりが
強ければ強いほどに空洞は深まり、
人と出会うだけ自分は穴だらけになっていく。


けれどその空洞は、
時にほのかに発光・発熱し、
内側からあたためてくれる得難い空洞だったのかもしれない。


そう考えた時、誰かと出会うことも、
親密な関係になることも、(表面的には)失うことも、

本当は何も恐れることはないのかもしれない。


実際問題わからない。
けど、僕はそう信じたい。
そう信じてこの先も生きていきたい。


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