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母と子、2人で話す。光と影についてまた考える。

「あなたは、昔からそうよ。
なんでも自分のせいにしすぎなの。
お母さんはさぁ。
自分なりにせいいっぱいやってみて、その上で相手が怒っているのであれば、もうそれは知らないだね。それは、その人の問題。私はそこまで背負えないから。」

と、母に言われた。

明日は母の日だが、1日早く母の日のプレゼントを購入した私は、実家に連絡もよこさず寄って(いつもそう。私は突然行ってしまう)1人でいた母にプレゼントを渡して、近況を話したりした。

母は自分が年老いたこと。
父が忘れっぽくなっていること。
夫婦のこと、など話してくれた。
「どこに行くにも2人で過ごしていて仲良いね、って言われるけど、まあ、いろいろあるのよ」と。

私は自分が悲しくなったり、憤りを感じたり、「私なんかいない方がいいと思う」というような気持ちを時々持ってしまうことを母に話した。

(これ、今考えると、完全に甘えだなと思う。子供からこんなこと言われたら悲しいに決まってる。そんなことない、あなたは必要って言って欲しいんだろうな、私は。全くもってこの年にもなって親に甘えているのが我ながら情けない....)


母は「またか」みたいな顔をして。

冒頭のセリフを、いつもの調子で話した。

そうなんだ。わかってはいるのだけども。

そして、そのようにできている時も、大人になるにつれてもちろん増えては来ているのだけども。

ある特定の人にはどうしても、できなかったりする。

先日書いた記事で(たぶんスコーンの記事だ)

「くまさんはこういう時に相手に気持ちが向かうのではなくて、自分の承認欲求を考えるのですね」と、コメントを書いてくださった方が何人かいらした。

私に、かなしみが起きた時。傷ついた時。

かなしみが起きた相手との関係の中で。

相手に怒りを向ける自分がこわいのか、そんな自分が嫌いなのか、なんなのか。(ここももう少しどうなっているのか、知りたいところでもある)

私は自分に深くもぐる。

そして、陥りがちなのが、自分の悪いところをたくさん探して(こういう時ほどよく見つけられるんだなぁ)
精神的に調子の悪い時なんかは「私がいなければ」というところの岐路に立つ。


だいたい「まあ、そんなこと言ってても仕方ない」と気持ちのあきらめが入ってきたり「そんなことよりお腹すいた」など、のんきな気持ちもわいてくるので、息継ぎのように水中から顔を出してなかったことにする。

その繰り返しだ。

私は、この自分の「悪癖」でもあり、ある時は役立っているかもしれない、コイツと今後もつきあっていかなければならない。


そして、私と全く似ていない母のこのような性格を、私はこの年になってあらためて感謝をしているのだ。


さて。

また、本を読んでいる。

今はこれ。

稲葉さんは医師で「いのちはのちのいのちへ」という紺色の素敵な装丁の本を出している。私はこの本と出会い、ファンになった。その方の最新刊を今日読み始めた。

そこにおもしろいことが書いてあったので備忘録として書いてみたい。

 このように自分の苦手なこと、回避していたことを、ユング心理学では「影(Shadow)」と呼びます。ある人が実際に生きてきた人生を光であるとすると、実際には生きなかった人生の半面は影に相当します。

光と影について考えていると、前回の記事で書いた。
この文章では、自分が選択しなかった生きなかった人生を「影」とあらわしているのがおもしろいなと思った。

 しかし、やがてその人の中で光と影を統合する時期がやってきます。その時に影は自分自身に対決を迫ってくるのです。結果、両者は対決を経て統合され、高次の光となります。

いずれ、どこかの分岐点で統合する時期が来るのだという。

ああ、岐路だなと思う。思えば私たちはたくさんの岐路にさらされているのだなと、ましてやこの情報が氾濫しすぎている世界で、たくさんの影が….自分が歩んで来なかったifがたくさん見えすぎているような気がする。(これは余談である。でも、自分に入ってくる情報はある程度制限した方がいいとも私は思っている。話を元に戻していく)

 人はどうしても自分自身が光であることを求めるものです。ただ、光は影や闇によって支えられてもいます。影への畏怖や礼節を忘れると、その人の全体性のバランスは崩れてしまいます。つまり、トラブルや災厄という短期的には負の体験としか考えられない思いがけない形で、自分の影は自分自身に復讐してくるのです。私を見て、と言わんばかりに。

影がそのものとしてあること。
影を見なかったことにして、軽く扱ってしまうと、いつしか、自分にとっての心の歪みやひずみに繋がりそうな気はなんとなくしている。
それはかなしみを背負っている人と会うことを生業にしている仕事だからこそ、そう思うのもしれない。

 そうした影に適切な居場所を与えることで、時に居心地の悪い思いをすることもあるでしょう。しかし、自分の影を認める体験を通じてこそ、人間性や人生に奥行きが生まれます。

 ドアをコンコンとノックするようにして、影が訪れて来る時。それはその人自身の中で、影を受け入れる器が熟した時でもあります。影の訪れは、対話や対峙という生易しい言葉ではなく、時に対決としか言えない場面としてもありえますが、いずれにせよ「みずから」選択し引き受ける時期が来るでしょう。

そうは言っても嫌だなぁと思う。
引き受けたくないなぁと正直に言うと思う。
私は穏やかに暮らしたいだけなんだ、といつも思っている。けれども穏やかに暮らしたいからこそ、戦わねばならぬものがたくさんあることもこの年になって身に染みて感じている。

大切なことは影の中には必ず成長の種が潜んでいる、ということです。新しく何かを始めるにあたって、あまりネガティブに考える必要はありません。自分が立ち向かえるようになった時期だからこそ、光と影が出会っている、と受け止め直すことが大事なのではないでしょうか。それは人生の中で、形を変えて何度も何度もやって来るものなのですから。

何度も何度もくりかえす。

母の好きな「キースヘリング」をサムネイルの画像にする。

1980年代に活躍したアメリカの画家だ。

彼の絵はいつでも「からみあっている」ように見える。

男なのか女なのか、こどもなのか、年寄りなのか、わからないひとたちが、いつでもひしめき合って、ふれて、もがいて、おどって、交差している。

「なんかやだ」と思うけど、それをなかったことにしたくない私は、この人生のたくさんの交差や岐路で、たぶん自分なりに立ち止まりたいのだと思う。

待ってくれ、とも思う。

そして、その時に感じる、新たな光や影を。


なるべくなら見届けたい。


そして
このキースヘリングの絵のように。

あなたと私を混ぜながら、真ん中にこころをきちんと置くことを忘れずに。

また日々はくりかえしていくのだ。

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