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机に「死ね」と書かれたキミへ

息子の机に「死ね」ということばが書かれていた。


この事実を私が知ったのは、仕事帰りに、実家に子供を迎えに行った時だった。
私の母親は、子供たちを週2回ほど学童に迎えに行き、仕事が終わるまで預かってくれている。非常にありがたいことである。

私は一瞬うまくことばを飲み込めなくて、母親にもう1度聞き返した。

「だからね。死ねって書いてあったんだって。本人が言ってる。担任の先生が書かれた文字の写真を撮ってくれたみたいだよ。その子の親に一言文句言ってやりたいわ。ひどいよね。」

私は息子に話を聞く。
息子は母が言ったような内容を私に話した。息子は泣いたり取り乱したり怒ったりせずに、落ち着いてゆっくりと状況を説明してくれた。それはまるで、生き物の気配がない森の奥の静かな湖のようであったので、私はざわざわする心のまま、ただただ波紋も立たない水面を見つめていた。



帰ってから、夫に話した。


そして少しすると担任の先生から電話がかかってきた。

話してくれた内容は以下のとおり。

・音楽の授業から帰ってきたら机に書いてあった。
・机に書かれたのは2回目で、前回は消してしまったと息子に言われた。今回初めて言ってきてくれたとの事。
・写メを撮って、緊急に学級会を開いた。みんなにアンケートをとったが、この事件の犯人については誰もが「知らない」という答えで、犯人は確定に至っていない。それぞれ意見を聞いたが、「そんなことをされたら嫌だ」とか「そんなことをしてはいけない」という事を学級の児童たちは話していた。
・休み明けにもう一度、情報収集を行う。
・息子については精神面に関しても精一杯サポートしたいと思っている。


「お母さんはどう思いますか?」

私は悲しい。悲しさが一番大きい。

でも、悲しさだけでは前にすすめない。

息子の一番の味方になれるのは、私たちだから。よくよく考えて話さなければならない。

私は、犯人がもし見つかったらその子と話がしたいと言った。

私は、自分の子供が誰かに「死ね」というメッセージを受け取ったことが何よりも悲しい。
君は君がそのようなメッセージを受け取った時に、君のお父さんやお母さんはどう思うかな?と投げかけたい。

人の心を想像することは大事であると思うから。

そして、学校にもこの件について、力を貸してほしいと話した。

なぜこのようなことを言ったのかというと、先日、上の子供の中学校の説明会に行ってショックを受けたことがあったからだ。

中学校の説明会の中で、今どきのいじめについて生活指導の先生から話を伺った。今はSNSを使った仲間外れやいじめが増えてきているが、この件に関しては学校は関与せず「家庭内同士で」話し合って解決してほしいとの事であった。私はそこに非常に違和感を感じた。
確かに家庭内で話し合うことが必要だと思う。学校にまかせてばかりで、学校の先生に責任を負わせることはあってはならない。昨今の学校の先生方は忙しく、コロナ禍の中で、さらに教育の在り方が問われている。

しかし、学校も生活の一部であると私は考える。親も当人も話し合うことはもちろん必要だが、学校で作られた人間関係の中でこじれた問題が起きるのであれば、学校側が一緒に向き合って伴走してくれないというのは、違うのではないのかなと感じた。

だから、改めて力を貸してほしいと先生に願った。担任の先生は「私はお子さんの味方です。うやむやにしてはいけない、絶対に許せないことだと思います」と声を震わせながら話してくれた。


息子について。
隠している訳ではないので、ここに記す。彼は発達障害という診断はついてはいないものの、いわゆるグレーゾーンの人だ。昨年4月から特別支援学級に所属を置かせてもらっている。授業の割合は、交流学級と支援学級を半々くらい。支援学級の先生は大変熱心な方で、息子がどのように自分の課題を認識して乗り越えていけるかを懸命に考えて下さっている。担任の先生は昨年新卒で入ってきた方で、交流学級の仲間と息子をうまくつなげようと若さを生かして意欲的に取り組んで下さっていることは面談などで感じ取れた。

息子は人との距離感がつかみにくいところがある。彼の課題の1つである。

何事も関心がある子なので、積極的に人に話しかける。これは小さいころからそうで、昔は知らない道行くおじさんにも「こんにちは」と笑顔で話しかけていた。

この彼の特性は、私にとってはこのまま大事にしていきたい部分であると思っているが、今後の人生において、距離が近いと嫌な気持ちになる人がいること、場面に応じて距離を調節することについて学んでいかなければならないとも感じている。


今回の件を想像する。

「死ね」と書いた子は息子に対して何か気に障ることがあったのだろうか。

それとも悪気なくいたずら的に書いてしまったのだろうか。

どういう気持ちで書いたのだろう。

こんなことをするということについて貧しさを感じる。その子の心は豊かさが足りないところがあるのだろう。屈折した気持ちがあるのだろう。

書いた子の親は、この事実を知った時にどう思うのだろう。

悲しさが連鎖する。

折り重なって積み重なる。

すべてを救うことはできないかもしれない。

今は息子の心に耳を傾けたい。


電話が終わった後、息子に話した。

私はあなたのことが大好き。
あなたと一緒に生きていると楽しい。
だから死んでいいなんて絶対に思わないで。
人は人に対して死んでいいなんてメッセージを向けるのは間違っている。
これは暴力。
この先、生きていく上で暴力をうけることがあると思う。

でもその時は絶対に声をあげること。これはいけないことだって。
これをやられて私はつらい。悲しい。苦しいというメッセージを信頼している人に必ず話してほしい。キミは一人じゃないから。必ず力になってくれる人がいる。それを忘れないで。
つらい時は無理をしなくていいんだよ。逃げることも大事なこと。それも頭に入れておいて。

息子は「僕は嫌だった。つらくなった。なんでこういうことをするのかなと思った。犯人が見つかったらボコボコにして怒ってやりたい。」と話した。

私は息子の話を聞いて「犯人が見つかったらお母さんはその子に何でそういうことをしてしまったのか聞いてみたいって、先生に話したんだよ」と伝えた。

息子は「僕もそうしてみる。理由を聞きたい。それがいいね。」と話した。

今日、息子は学校へ行った。夫が「つらかったら休んでいいんだよ。」と何回か聞いたが、息子は迷わずに「大丈夫。友達も先生もいるし。行く」と話した。


私は自分の子供を「いい子だね」とは言わないように気をつけている。息子は彼のこだわりやでこぼこがあって、成績も特別良い訳ではない。
私から見ると彼はいい子というより「いいやつ」だ。

人を自ら攻撃することはない。いつでも明るく、おもいやりがある。

学校の勉強は嫌いだけど、好きなことは勉強熱心だ。いつも恐竜や生き物のことを考え、想像し、彼の世界を創造している。

言われたことは素直に受け取る。人の幸せを一緒に喜んで受け止めてくれる。人と自分を比較することは最近増えてきたようだが、人を妬むようなことばは口に出したことがない。

朝もご機嫌で歌を歌いながらあらわれる。家族をユーモアで笑わせようとする。元気がない人に声をかけてくれる。

死について恐れている。おじいちゃんとおばあちゃんがいなくなってしまうことについて真剣に彼なりに考えている。

彼のでこぼこを含めて、一緒にいると私はとっても楽しいのだ。
例え家族じゃなくたって、一緒にいたいと思う。
すごくいいやつだ。私にとって大事な人が悩んで苦しんでいることに対して一緒に考えていきたい。

誰だって親は初めてやるのだ。いい親って何だろうと思う。やり方は誰も教えてくれない。

今はただ息子と笑って過ごしていきたい。それだけだ。


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