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愛しき世界とハンドベル

冷たい風は私のほほを冷やし
吐く息は白くあたたかく
後ろに置き去りになって消えていく。
朝の入谷は夜とは違って
どこかかしこまったような
何かの始まりのような
さわやかさも感じさせる。
歩行者をすりぬけて
最寄駅に着く。
鶯谷は猥雑な街だ。
駅前はどこもかしこも変な名前の
ラブホテルがたくさん立ち並んでいる。
山手線で1番利用客が少ないことも
納得せざるを得ない。
このホテルの数だけ愛だの恋だの
人間の美しいものや汚いものや欲望が生まれているかと思うと、私は横を通るたびに気恥ずかしさと禍々しさとおそろしさに飲み込まれそうになる。なるべく横にそびえている建物を見ないふりをして通り過ぎるが、それは私にも確かにあるものであるとどこか自覚しながら毎日気持ちに蓋をしている。
夜は立ち飲み屋が焼きとりを焼く匂いと
ライブハウスから漏れ出る歌声であふれかえる。
そんな夜の喧騒に比べて
健全を装った朝の鶯谷駅で
私は自転車を停めて
マフラーをぎゅっと結び直して
改札を通り抜け、階段を降りる。
京浜東北線でも山手線でもどちらでもいい。
2、3分おきにくる電車に乗って秋葉原まで辿り着き、秋葉原から中央線に乗り換える。
先ほどまでかじかんでいた手のひらはあたたかくなってくる。
それどころか人の熱気に熱くなりすぎてしまう。
電車は満員に近く、入らない時は駅員にぐいぐいと押し込まれる。隣にいる背の低いおじさんの整髪剤の独特な匂いが鼻につく。女性会社員のヒールのとがった踵が私の靴を踏んでくる。狭いのに新聞紙を無理やり広げるおじいさんがいる。
私はリュックサックを抱えて、雨宿りをしている鳥のように必死にこの状況に耐えている。

着いた駅から徒歩5分。
そこは精神科の病院だった。
私は冬季の実習を履修するために2ヶ月間ここでお世話になっていた。
慣れない都会の生活と
満員の通勤電車と
コンビニ食と
ひとりぐらし。
24歳の冬。

朝はゆるやかにはじまる。
デイケアではスタッフも私服である。
学生である私も私服で通うように指導者に言われたので、飾り気のない普段着で入室する。
棚の上にCDラジカセが置いてある。
朝は必ず栗コーダーカルテットの帝国のマーチが流れていた。

ちっちゃいダースベイダーが出てきそう、とずっと頭の中で思っていた。曲のセレクトがいつもよくわからない。精神科のデイの利用者さんたちは思い思いに好きな曲をかけはじめる。
目の前にはうなだれているアキヤマさんがいる。アキヤマさんの後頭部が薄くなっているのがよくわかる。彼はメガネをかけたおじさんである。「とてもわかりやすい双極性障害」と指導者に言われた通り、彼はダウンしている時と、はしゃいでしまっている時の、落差が大きい人物だった。躁になるとお金をいくらでも使ってしまい、鬱になると今度はそのことで落ち込んでしまう。本日の気分は落ち込み気味であることは火を見るより明らかである。私は声をかけずにそっと、彼の心の静寂が戻るようにただ祈る。
カナザワさんはもう1人のおじさんである。ぬぼーっとした雰囲気を持つ親切な人だ。必ず私に挨拶をしてくれる。学生慣れしている患者さんという感じだ。彼はあたたかいお茶を今日も飲んでいた。甘いものが好きなのに糖尿病があるため、飲み物も健康に気をつかったものをセレクトしている。
朝の挨拶がはじまり、本日のプログラムを看護師さんが確認する。みんなホワイトボードを見たり見なかったりしながらゆるゆると1日がはじまっていく。
私の担当させてもらっている患者さんはヤマダさんという女性であった。ヤマダさんはだいたい遅刻してくるので、この時点では彼女の姿はない。
ヤマダさんは頭の中に他者の声が入り込んでしまったり、自分と世界の境界線があやふやになってしまう。彼女は自我を保つことができずに、誰かの救いの声を求めている。
今は鏡リュウジである。鏡リュウジさんという占い師さんの声を頼りに生きている。そして携帯ショップのイケメンの店員さんに恋をしている。恋が実ることを夢見て、鏡リュウジさんの書籍を買いあさってしまうので、お小遣いがすぐになくなってしまう。彼女は昔は会社に勤めていた時代もあったのだが、病気になって以来、実家で細々と暮らしている。私から見ると、もうすぐ50代になる彼女の人生は、課題が山盛りでてんこ盛りのように思えた。
私は、彼女が信じている占い話が全く通用しない無慈悲で残酷な世界と彼女自身が、今後どのように世界を織り成していくのかを、この2ヶ月間で一緒に考えなければならないのだ。
「学生が取り組むにしては随分と荷が重たい人を選んでしまったようです」とのちに私の指導者は言った。そんなことはこの時点の私は知らない。私は果敢に彼女に猛アタックする。まずは彼女のことを知ることからはじめる。
朝は前述したように姿を現さない。午後になると喫煙所にいることが多いので、刑事のごとく張り込みに行く。
非喫煙者で喘息持ちの私にとって、この煙たい空間は大変居心地が悪いものであったが、実習をクリアするためには致し方ない。通い詰める私を見かけると、ヤマダさんはその場から逃げるようにデイケアルームに避難した。
ヤマダさんは私が現実と向き合うような話ばかりするのを、大変恐れていた。新しいチャレンジもこわい。何よりも見ず知らずのよく知らない他者が、自分に関心を持って色々と問いを投げかけることをきっと苦痛に思っていたに違いない。
彼女が一度泣いてしまったことがある。
「もういやだいやだ」と指導者と私の前でさめざめと泣いた。私は「わかりました」「そうやって気持ちを話してくださってよかった」「たくさん話しかけてごめんなさい」と静かに謝罪した。ヤマダさんがデイルームに戻って行ったあと、私は指導者に怒られるかと思っていたが、反対に指導者は私のことを褒め始めた。
「泣いていたのに、よく冷静に対応できていた」「彼女が自分の感情や気持ちを話せたのはいいことだと思う」
そこからヤマダさんは少し変わった。私との距離を少し縮めるように彼女も努力してくれていることがわかった。自分のことも彼女なりに考えようとしていた。お小遣いを使い過ぎてしまう対策として、領収書をノートに貼って1日に何円使ったかわかるようにした。腰痛があるので、一緒にストレッチする時間を作った。就職を視野に入れるためにどんなサービスが利用できるか一緒に調べた。指導者も実習最終日に「あそこで泣いた日からヤマダさんは少し変化があった。あの時の対応は良かったと思う」と再び褒めてくださったが、私はいまだにこの時の対応がどんなものであったのか、雲をつかむくらいあやふやで曖昧な感触で生きている。
「精神科へ就職してみた方がいいと思う。あなたはきっとはまるから。」
と学生時代、何人かの先生たちに言われた。作業療法士は精神科の病院でも働くことができる。実習も精神科領域の分野へ最低1回は行くことになっていた。しかし、私は身体障害分野に就職した。私はいまだによくわからない。他にも精神科病院の見学などに何ヶ所か行かせて頂いたが、よくわからないのだ。奥深くてやりがいはありそうだなと思うし、興味もあった。でも私なんかが太刀打ちできるものではないと思った。私のお友だちの中に精神科に通院している人は今も昔も何人かいる。みんな素敵な人ばかりだ。プライベートでお付き合いするのと、仕事で接するのは違うものだと思う。私は今だって仕事でお会いする人は完全に仕事モードで割り切って接している。数年前に訪問リハの仕事に変わって、私は精神科の患者さんのところへも訪問することになった。しかし、やっぱり雲をつかむような作業を繰り返している。いつの日かもう少し物体として確かなカタチのようなものを掴める日が訪れるのだろうかと途方にくれたりもする。
話を元に戻していく。
患者さんたちは皆個性的で不思議で不器用で精一杯で、私はここをとても愛おしい世界だと思っていた。みんなどこかで傷ついて、うまくいかなくて、羽根をもがれたような気持ちで、デイにやってくる。デイではのびのびとしたり、普段は出せない感情を出せたり、喧嘩してみたり、仲良くなったり、人間関係を築くための練習をしているようであった。デイのプログラムは患者さんたちが全て会議で決めていた。月一の会議で来月やりたいことを発言して決めていく。その中で1人気になった人物がいた。
ワカツキくんは男性でまだ20代。彼は最近デイに通うようになった人物だ。
「はいはい!」と積極的に手をあげていた彼は、一言で言うとまわりの空気が読めない人であった。今は自閉症スペクトラム障害の中の一つとして位置しているが、当時はアスペルガー症候群という名前の診断名が彼にはついていた。
発言の内容や挙手するタイミングなど「今それを言うのか!」という挙動を繰り返していたので、私も印象に強く残った。
夕方の帰宅前の掃除の時間も、彼は何もせずぼんやりとしていた。あとでなぜ掃除をしなかったのかを聞いてみたら「みんなが掃除をしている=掃除をするべき時間」という概念がなかったとのこと。これは指導者に「『何時になったら掃除をするんだよ』と彼に伝えておけば解消されるものである」と教えてもらったが、本当にまわりの空気を読んで行動することができないのだなと痛切に感じた出来事であった。この日本における社会生活の中では彼は生きづらいだろうなぁと私はひしひしと身をもって体感していた。

実習も最終日。
私はあろうことか昨晩から発熱していた。実習中に体調だけは崩したくないと願っていたが最後の最後で気がぬけてしまったのかもしれない。指導者に朝方連絡をしたら「ここの病院は内科もあるからそこで受診して診てもらうといい。そのあとこちらに来てください」と言われた。ふらふらとしながら私は病院に辿り着き、内科で風邪ではないかと診断を受け、薬をもらい、いつものようにデイルームに入室した。
指導者から今日はつらいと思うけども休まないで欲しいと話があった。なぜなら、デイのみんなはあなたを送り出す会を本日まで考え続けて、それを今日披露したいと思っているから。畳の部屋で休みながらでいいからそれに参加してくださいませんか?と聞かれたので、私は驚きながら快く返事をさせてもらった。
畳の部屋でブランケットにくるまりながら、この日は皆のお別れの挨拶や一発芸や歌を聞いて過ごした。とてもあたたかく親密で個性的で、私は体調も悪く弱っていたこともあいまって泣きそうになった。
2か月、私はとても楽しかった。そして様々なことを知れた。何より皆と会えたことは宝のように思えた。毎日大嫌いな満員電車に耐えられたのも、実習で出会えたみんなのおかげだと思った。
デイケアのみんなが帰宅した後、最終レポートを職員の前で発表し、貴重なアドバイスを頂いて、間借りしていたマンションまで帰宅した。

実習終了後。
私は都内から離れて地元へ帰った。学校はこれから国家試験の対策と卒論の最終仕上げで忙しくなる最中であったが、私はまだ実習の余韻がぬけずにどこかふわふわした気持ちで過ごしていた。

そしてなぜか私はまたあの精神科の病院に向かっていた。
病院主催のクリスマスコンサートをやるので、良かったら見にきて欲しいと指導者に言われていたからだ。私は(今の夫である)当時お付き合いをしていた彼と一緒に病院に辿り着いた。コンサート会場は病院の会議室の一室であった。会場はすでに人で溢れかえっていて、ざわざわと賑やかであった。
前方には机が並べられていてハンドベルが置いてある。皆がハンドベルを練習していたことを私は思い出す。指導者が挨拶を行い、デイの皆がぞろぞろと前に出てきた。緊張していることがこちらにも伝わってきたが、皆変わらず笑顔であったので、私はほっとひと安心した。担当させてもらったヤマダさんの顔も見えた。
ハンドベルの演目はクリスマスソングの「きよしこの夜」
周りが静まり返って
ハンドベルの音が鳴る。
りんりんと
なり続ける音色に
私は胸が高まった。

実習はこれが最後であった。
あと3か月したら国家試験がある。
彼とは数日後に籍を入れようとしていた。
春からは就職と結婚生活が待っていた。
全てが目まぐるしく変わっていく。
どんどん新しいことがやってくる。
でも、ここはずっとここであるのだろうなと思う。もう2度と訪れることもないこの場で、これからまた愛しき世界が繰り広げられること。その中でも変化は訪れること。今ここにある瞬間はこの時にしか出会えないものであること。私と皆の世界が混じり合った2か月間が確かにあったこと。

ハンドベルの音が外れて聞こえてくる。
ワカツキくんがとびきりの笑顔でハンドベルを鳴らしている。彼のパートだけハンドベルのタイミングがずれていたが、そんなこともおかまいなしでとても幸せそうな顔をしていた。

私は思わずふふっと笑いながら、ありったけの拍手を送り続けた。

若かりしクリスマスの思い出を私はたまに思い出す。あの時皆にもらった寄せ書きも引越しのタイミングでどこかに消えてしまった。

晴れた空の向こう側で、どこかの誰かが今日も一生懸命、不器用に生きていることを、私は忘れたくない。

私は私の不器用さに心底嫌になる日も少なくはないけども。

あのハンドベルを時々思い出す。

神様も許してくれるような
とびきりの笑顔と一緒に
高らかにその音は
今日も私の中で鳴り続けている。

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