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共感は感動だけにあらず

「感動を有難う」「皆さんに感動を与えたい」 昨今は スポーツを観る側・スポーツをする側の双方から「感動」のフレーズを耳にします。松下幸之助は「商売とは感動を与えることである」と言っていました。それは家族も含めて商売に関わるすべての人たちや顧客が新商品に抱く期待を裏切らない 期待を上回ることなのだと思っています。感動は「共感」から生まれるものなのでしょう。

共感性の進化というお話がありました。げっ歯類(いわゆるネズミ)は捕食されないための群れでの生活に適応していく中で 効率的な採食やなわばりの防衛を身につけ 仲間といる喜びや互いの痛みを感じる感情を共有するそうです。その共有する感情とは マウス・ラットの研究の中では 閉じ込められた仲間を救助しようとする行動(救助行動)や痛みの情動伝染として知られています。そして犬と人の交流では 双方のオキシトシンが上昇し信頼感や安心感が醸成され 共感性に関わる絆が形成されることが解明されています。猿の社会でも共感性に関わるなぐさめ行動が知られています。動物にも共感や愛情といった本能が身についていることが研究で認識されるようになりました。これらの共感は 相手と感情や動きを合わせるもので 他者の情動の表出によって起きる自己の情動反応=情動の伝染なのでしょう。人の共感の起源も同一のものなのでしょう。しかし 人においては 内省や克己心 自己制御等の人としての道徳心・理性が共感に影響を与えています。人の共感には本来 道徳心・理性のもとに他者の情動・感情を理解する「認知的共感」と 他者の情動・感情を共有・同化する「情動的共感(情動の伝染)」の双方が必要であり さらに自己と他者の視点に立つことを忘れてはいけません。

昨今 芸能人の不倫であったり 不祥事に対する発言や行動によって被害者となってしまった人への共感から ヘイトにも近い言葉を集団で浴びせかける事態を目にします。これはまさに情動の伝染による共感によるものなのでしょう。偏った共感と言わざるを得ません。他者の情動・感情を自己の経験をもとに共有・同化する情動の伝染であれば他者への攻撃性はこれほどまでに高くはならないと思っています。他者の経験を我が事のように・我が事として経験して感情を同一化してしまう共感は 理性が働かず直感や情動(怒り)によるもので その共感はとても強いものになります。情動的共感は時に自己制御を奪い 暴力的で不快なものになりがちです。認知的共感と情動的共感(情動の伝染)がうまく伴わなければ 他者への思いやりや哀悼といった同情の感情は生まれることはないでしょう。しかし 怒りを主とする情動的共感(情動の伝染)が全くもって駄目な訳ではなく 健全な情動的共感(怒り)が発端となり認知的共感の後押しを受けて政治や司法を動かしてきたことは多々あったと思っています。

不安や不満が満ちてきている今の社会において 怒り(情動的共感)から芽生える共感からは 信頼感や安心感 愛情や同情を深めることは難しいことです。人としての認知的共感を高めていかなければなりません。

スポーツにおいて 共感の物語は 感動に限らず トップ選手に限らず 全ての人に有るものです。そしてその物語は結果ではありません。スポーツを観る際に 監督と選手のやり取り(視線や距離感)   控え選手の献身 監督やコーチの熱情……そうしたことにも視野を広げて観るとスポーツの世界には 情動的共感(情動の伝染)だけが存在するのではなく 気遣いや配慮し合う認知的共感に溢れているはずです。それらを感動の一語で片付けてしまうほどスポーツは陳腐ではないと思っています。

スポーツを観ることで 選手の経験を経験して共感を得るとしても その答えが感動だけであるはずはない。

スポーツを観る側もスポーツをする側も 「感動」探しから少し距離を置いて「共感」を探してみませんか。





「ちょっとやってみようかな、マネしてみようかな」というところからカラダの使い方に興味をもってもらえれば嬉しいです。