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なんとなくモヤった『二十五、二十一』



 韓国ドラマ『二十五、二十一』を見たので記念に感想をまとめます。

めちゃめちゃネタバレしているので未視聴の方は気をつけてください





個人的に気になった部分も多く、なんとなくそれってどうなん…ってモヤるところも多かったのに周りの反応はかなりよかったので自分が何に引っかかったのか文章化してみようと思います。ブームも若干去った(?)し、こっそり書いてもバレないよね…?


 『二十五、二十一』で描かれている大きなテーマの一つとして、人生を変えるような人物に出会うことができたとしても、その時間や関係が必ずしも一生続くわけではない、という人類の永遠のテーマが挙げられる。その「瞬間」こそが美しく、それらの思い出や記憶が大切な宝物だから、人はこれからも生活を続けることができる。

 これ系の作品は過去に何度も作られていて、私自身そういったテーマを扱った作品は大好きだ。『ハチミツとクローバー』『LALALAND』『ローマの休日』『BANANAFISH』……若者の迷いや葛藤の中で未来への期待と不安を抱えながら一生懸命生きる、もう二度と戻ることは出来ない一瞬の煌めきを想起させ、人々は懐かしみ、憧れを抱く。本作品において言いたいこともやりたいこともすごくよくわかるのだが、個人的には「どこか物足りない…」と思ってしまった。その理由について考察していく。


 二十五、二十一で私が気になる点は大きく二つある。

 一つはこのドラマが始まる上で重要な時代背景である「IMF危機」に関する描写の少なさだ。このドラマはNetflixを通して世界のあらゆる国や地域で視聴されている。IMF危機から約四半世紀が経ち、視聴者の世代も移り変わった。今現在このドラマを見ている人たちはIMF危機について深くは知らない人間がほとんどではないだろうか。だからこそ、当時の感覚やどれだけ人々が苦境に追い込まれたのかという描写がもっと必要だったのではないかと思う。ナ・ヒドはIMF危機により通っていた高校のフェンシング部が廃部になり、ペク・イジンは豊かな生活から一変して家族とは離れ離れになり高卒で働くことになる。コ・ユリムはただでさえ家庭の経済状況が芳しくないにもかかわらず、イジンの父親の会社による支援は途切れてしまう。確かにみんなかわいそうでしんどそうだけれど、主にフェンシングを通しての経済状況しか描かれないため、IMF危機が人々の生活をどのように変え、そこから人々はどのように立ち上がったのかがよくわからない。ペク・イジンだけじゃあまりにも極端だ。韓国史に名を残すIMF危機により起きた苦境はデモシーンだけでは伝わらない。IMF危機は国民に多大な影響を及ぼし、暗い事件も数多く起こった。9.11テロといい、歴史的な大事件を扱っている割にはその辺の描写が雑だと感じる。

 二十五、二十一は明確な「敵」(ヴィラン)が出てこない。『梨泰院クラス』の長家、『愛の不時着』のチョ・チョルガン。『ミセン』の怖い上司たちのようなわかりやすい「敵対組織」だ。もちろんその敵がいないことがこのドラマのキラキラした部分を引き立てるのだが、どろどろのぐつぐつに煮込まれた韓国ドラマに慣れきっていた私は、なぜか拍子抜けした気分になってしまったのだった。黒沢清監督による「日本映画におけるある種ウェッティな部分を、海外の視聴者は求めている」という発言が先日ツイッターでバズっていたけれど、私も同じく韓国ドラマにおいて、従来のような重く悲しい登場人物たちのバックグラウンドを求めていたのかも知れない。(チャン・グレの方が可哀想だぞ、と何故かペク・イジンと張り合いたくなってしまう…)


 二つ目は、先に述べたテーマをメインで作りたかったのならば、韓国ドラマでは長すぎるという点だ。韓国ドラマは平均一話一時間強あり、話数も16話近くあることが多い。その分映画や日本のドラマより、細かい描写や登場人物の細部にわたるビハインドストーリーまで描けることが利点であるが、本作は主人公以外の登場人物に関する話が少なすぎる。もっとムン・ジウンの家庭環境やチ・スンワンの海賊放送、ナヒドの娘がどうしてバレエが嫌になってしまったのかについて掘り下げるべきだったのではないかと思う。
 ってか最後!!!!ナ・ヒドお前!!!!なんでそんなあっさり結婚して子供までいんの!!!!!その辺ちょっとおかしいだろ!!そこは説明させないといけない部分だろ!!まぁナ・ヒドとペク・イジンが結婚する未来はないだろうなと思っていたよ。だってそれは作者の描きたい主題ともずれるだろうし…でもなんの説明もなしにナ・ヒドあっさり結婚しちゃうのはそれはちょっと説明不足だろうよ。しかも現在の夫がどこで何しているのかよくわからんのもそれでいいの?って感じ…。せめてイチャイチャしてた元彼オッパとか今まで出てきた登場人物のうちから出してくれてたらまだよかったのにダークホースて!!ペク・イジンの高感度は上がったままだろうけどナヒドこのままじゃちょっとひどい女じゃない??

 『LALALAND』もミアは結婚して子供もいて女優としても成功して、偶然夫と入った元彼セバスチャンの経営するジャズバーで邂逅っていうエンディングは『二十五、二十一』もさして変わらないはずなのにどうして納得できないんだろう…映画とドラマの尺の違いもあるだろうけど、ナ・ヒドに今までペク・イジン以外にまともな男と付き合った形跡がなかったのにいきなり結婚したから腑に落ちないっていうのもあるのかしら…

 何より『LALALAND』の功績は、誰もが思い描くであろう元恋人との「もしもの世界」を描くという演出が、後味を悪くさせない画期的なものだったのかもしれない。夢オチかよという意見も公開当初は多々見られたが、私自身はあのエンディングはとてもよかったと思う。お互い夢を叶えたけれど、その隣にいるのはお互いではなく、違う人。それでもそれぞれの場所で、二人はこれからも幸せに暮らすだろうという未来を予見させる。ハッピーエンドじゃないか。

 先ほど韓国ドラマにおけるヴィランの存在について触れたが、(現実世界において悪は悪として然るべき対処をされるべきであるという当然の事象はさておき)「悪がどうして悪になってしまったのか」について掘り下げるのがフィクションの良さ、作品の面白さの一つと言えよう。各エピソードの掘り下げが欠け、あまりにも『青春』の部分にフォーカスしすぎたために個人的には物足りなさを感じてしまった。

 イジンが計画した卒業旅行や屋上の秘密基地、トンネルでの鬼ごっこは「青春の一ページ」として記録するには美しいシーンであるが、それももうだいぶ使い古された演出じゃないか…?しかもそういうシーンが長い。いやもうそういうのは散々やったやん、と突っ込まざるを得ない。なんとなく小っ恥ずかしさみたいなのを感じてしまったのは私の感性が死んだということですか???でもみんなすごくよかった!!って言ってるから…ベタな展開はやっぱりみんな好きということなのかな?知らんけど。

 人間の心情変化においていちいち理由がなかったり、思っていたより大きな出来事ではないことは実生活においては普通のことだけれど、物語を作るなら視聴者を納得させるためのそれ相応の理由が必要ではないか、と私は考える。もちろん物語で全てを語る必要はないと考えているが、匂わせくらいはしてくれよ。本作品はその辺の描写がちょっと薄っぺらい上に唐突な部分が多すぎた。


 『二十五二十一』は、今までに何度も作られた誰もが憧れ、共感しうるテーマで作ってみた結果、「やっぱみんなこういう話好きだよね〜」という確信を持ったものになった。一方で、物語の緩急のなさゆえ全体的に物足りない印象を残した。最終的に主人公二人が結ばれなかったことを憂いているわけではない。だってそういうものだから。どれだけ深い絆で結ばれ、人生の中で輝く瞬間を共にしていたとしても、その関係や時間が永遠に続くものではないというのは、ある種人類の永遠のテーマなのだ。

 でもそこから、もう一捻り必要な段階だ。だってそれはもう世界各国であらゆる創作者たちが扱ってきたテーマだから。そこにもうひと匙、『二十五、二十一』ならではのアクセント、隠し味、あるいはもう一つの主軸となるテーマを作るべきだった。っていうかフェンシングにもっとフォーカスを当てた作品だったのならもっと面白かったのではないか?と思う。『ちはやふる』『ハイキュー!!』『三月のライオン』みたいなさ…もっとフェンシング上手い感じに混ぜ込められなかったん??と思ってしまうな…


とまぁここまでつらつら書いてきましたが、こんな感じです。ようやく私の中で『二十五、二十一』を消化できました。おわり

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