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雪の華


 チェジュは先週末、雪が降った。韓国人は初雪が降ると恋人に連絡して一緒に雪を見るんだって。綺麗な景色を大切な人に見せてあげたいと思うことは、確かに愛だと思った。



 最近思うの。生きる意味とか理由って多分自己完結できない。どこかに限界がある。そもそも人間って自分のためにそんなに一生懸命生きられるようにできてない気がする。若いうちは自己投資することが楽しいし、それだけで毎日忙しいけれど、果たして十年後、二十年後はどうだろう。人生は、あまりにも果てしなく続いていて気が遠くなった。人生百年時代なんて、厄介な時代に生まれてきたしまったものだ。


 依存具合は人によりけりだけど、私たちは何かに寄りかかっていないと生きていけないんじゃないだろうか。私はその対象が漫画やアニメや映画やアイドルで十分だと思っていたし、それら一つ一つを追いかけることが楽しくて幸せだったけれど、一つ一つ追いかけていく上で気づいてしまった。それらでは絶対に埋めることのできない隙間があるってことに。皮肉なことにそれを教えてくれたのは、その作品たちだった。


 死んでも残るものは愛しかなくて、もらった愛だけが、その人が確かにこの世界に実在したという証なのではないか。大切な誰かが自分の目の前からいなくなったとして、その人の顔も声も、きっと徐々に忘れてしまう。どれだけ大切な人だったとしてもその人のことだけを毎日考えて残りの人生を過ごすなんてことは絶対にできない。それでも、その人のことを愛していたということ、愛されていたということは、確かに自分の中で生きていく。その愛のリレーを繰り返し、与え、受け継ぐことが、生きるってことなんじゃないか。お金も家も地位も死んだら全てパァだけど、真心は残る。確かに自分は誰かに愛されていたという事実と自信が、これからの自分を作っていく。

過去に付き合った恋人を大事にしたいと思っていたし、好きだと思える瞬間だってたくさんあったけれど、恋をしているとはなぜか思えなかった。触れられるとドキドキするとか、誰にもこの人を渡したくないとか、そういう気持ちはよくわからなかった。あまりにも映画や本や音楽で見聞きするものだから、なんとなく知ったような気になっていたけれど、実際に経験してみたことは、今考えてみると一度もなかったのではないか。


 「恋」と「愛」と「好き」と言う感情は、連結しているようで全く違う独立したものだ。そしてそれらは、少なくとも私にとっては、全てのカードが揃わなくても成立するものだった。もしかすると、私は恋をしない人間なのかもしれない。恋をしたことがないからといって自分が何か欠けた存在だとは思わない。ただ少し、気になる。恋ってなんだろう。私には全く未知の存在だ。誰かを恋焦がれる気持ちを知りたいと思う気持ちと、それら全てを投げ打ってでも誰にも邪魔されることなく、思うがままに生きたいという気持ちが交錯する。


 でも私は、やっぱり生きる意味を他人の中に見つけたい。それは恋愛に限った話ではなくて、私が誰かに対して恋愛感情や性的欲求を抱くことはこの先一生ないのかもしれないけど、それでも私は愛を知っているし、これからももっと他人と、自分の深いところにある何かを共有したい。私のことを知ってもらいたいし、何より相手のことを知りたい。​対等な関係として、お互いを信頼し、必要とし合えるような関係をずっと求めている。その対象は男でも女でもなんでもいいけれど、恋愛感情と性的欲求は切り離して考えたい。私のことを女としてではなく、一人の人間として捉えてほしい。スカートもワンピースもピンクもフリルも好きだけれど、私がフェミニンな服装を好むことと他人に女性らしさを求められることとは全く別物なの。



誰かのためになにかを したいと思えるのが
愛ということを知った 


 人生の先輩(?)が、カラオケでこの曲を聴きながら「こう思える誰かを、あなたも見つけられるといいわね」と言った。その時私はぼんやりと、初めて愛について考えるようになったのだと思う。私の思い描くその「誰か」は、家族だったり、まだ見ぬ子供や赤ちゃんだったり、骨張った指先だったり、スカートの裾だったりした。




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