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月例落選 短歌編 2023年2月号

角川『短歌』に投函したのは2022年11月14日。題詠のお題は「塩」。これは思いつかなかったので、雑詠四首の投稿のみ。

ドナドナと君の名を呼ぶ夕暮れにキラリと輝く液体窒素

穏やかな月夜を乱す謎の影己と識らず戦き騒ぐ

亡き人の茶碗に残る口の跡漂白剤で磨いて笑え

魚沼の新米炊いた朝の陽は初日の出より神々しくて

以前に書いたが、縁あって山梨県北杜市の農家から野菜を定期的に少量ずつ購入している。その農家は自給自足を目指していて、2021年12月に肉牛を飼い始めた。12月にセリで買い付けたのは雌2頭だ。これに種付をして肉牛飼育を生業として立ち上げていかないといけない。市場で高く売れるのは和牛だ。せっかく山梨で育てるわけなので、なおのこと「和牛」として売れなくてはならない。そのためには「和牛」であることを証明できないといけない。それには、血統を明らかにする必要がある。そこで、理屈としては、血統の明らかな雄の和牛を連れてきて種付けをする。人間は毎日が発情期だが、人間以外はそうはいかない。この2頭も飼い主の思惑通りには発情しないという。それは普通のことのようで、実際に「和牛」として流通しているものはほぼ全て人工授精によって生まれたものらしい。農協には人工授精に使う種牛のカタログが用意されていて、それぞれの「種」について、出所の牛の生前の姿の写真と、肉の写真がさまざまなデータと共に掲載されている。手元にその農家から野菜と一緒に送られてくる近況報告があり、そこにカタログの写真が掲載されている。画質が今ひとつで、それをスキャンしてここに載せてもよく見えないと思うので、そのカタログの写真の掲載は今回は見送る。

他にも牛に関する興味深いことがたくさんあるのだが、際限がないので今回は書かない。いずれにせよ、この2頭は人工授精をすることになった。人工授精をするにしても発情は必要だ。幸い、片方が昨年9月に発情し、人工授精をした。その種が液体窒素の詰まった保管容器に入っているのである。その後、妊娠が確認され予定日は今年6月10日頃とのことだ。もう片方は、とうとう発情せず、今年に期待ということらしい。

普段何気なく口にしている肉だが、口にするものだからこそ、厳しく管理されていなければならない。それはその通りなのだが、話を聞けば聞くほど何かが引っ掛かる。何がどうということではなく、何となく引っ掛かるのである。食べてしまって、あれこれ言うのは憚られるのだが、我々は自分が食べてしまう「命」について厳格な管理を当然のように要求している。確かに、管理が行き届いていないと我々は消費者として困ったことになってしまうのだが、食べられる側にしてみたらと思い始めると、やはり引っ掛かる。しかし、私はこれからも焼肉や、すき焼きや、しゃぶしゃぶ、その他肉料理に舌鼓を打ち続けることだろう。

11月8日は皆既月食だった。月が地球の影に入って、地球上にいる我々からは見えなくなってしまう。眼前にあるものが自分の影で、自分の所為で、自分の視界から消えてしまうというのが面白いと思う。自分の存在が影響を与えているのに、そのことに肝心の自分が気がついていないというのは普段の生活の中にいくらでもありそうな気がする。

陶器には貫入があるので、長いこと使っているうちに自然にそこに汚れが溜まる。貫入そのものに個性があるので、そもそも個々の陶器は唯一無二なのだが、仮に全く同じ貫入があったとしても、使う人の個性があるので、汚れかたはやはり唯一無二となる。その汚れも含めて陶器の値打ちになるのだが、汚れは汚れという考え方も当然ある。茶道具の場合となると、その汚れがどういう汚れか、誰の汚れか、というようなことが問題になる。残しておきたい汚れもあれば、一刻も早く清めてしまいたい汚れもある。

ここ数年、ふるさと納税であちこちの米をいただいた。その結果として、魚沼のコシヒカリの新米が最高だと思う。神の恵みというものがあるとすれば、こういうものがそれにあたるのだろう。私は毎日弁当を持って職場に出かける。つまり、昼に弁当でいただくご飯は冷飯だ。冷飯の状態の味が、魚沼のコシヒカリは突出している。

以上、この回の歌の背景である。お粗末。『角川短歌』も定期購読の更新時期を迎えたが、「俳句」同様、こちらももう止めようと思う。

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