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今和次郎 『日本の民家』 岩波文庫

内燃機関が歴史に登場する以前、交通や運輸は人力頼みであったはずだ。海やちょっとした河川があれば舟運も利用されただろうが、一般の人々の暮らしは身の丈の範囲内で営まれていたと考えるのが自然だろう。その暮らしの要である住居はそれぞれの土地に適した材料と工法で作られていたはずだ。

南北に連なっている上に起伏に富んだ日本列島には多種多様な民俗がある。その自然に任せれば生活様式も多様になるはずだが、統一政権が誕生してその権力機構の基盤となる富の源泉に稲作を選択したところから、民俗の多様性には農業にまつわるある程度の制約が加わったのではないかと想像する。以前にどこかに書いた気がするが、我々日本人はなぜ稲作を選択したのか、やはり謎である。

本書に取り上げられているのはこんが実際に調査したものなので大正から昭和初期にかけて実在した民家だ。維新で新たな思考も導入されたはずだが、おそらくそういうものよりは生計を立てるという経済が民家という物理を規定している面が強いのだろう。

どこからでも便利ないい材料をもって来るわけには行かないので、自分たちの土地で得やすい材料を主として作らなければならない。また、土地によって気候風土がちがうから、雨の多いところでは、それに備えるように、寒いところでは、寒さを防げるように、それぞれ自分たちで工夫して作らなければならない。

29-30頁

維新後、急速な産業革命が進展したとはいえ、幕藩体制が道府県制に置き換えられただけの地域単位の統治思考の下では、長年の生活史に基づいて発達した民俗は容易に変化しない。風景としての江戸時代の名残が関東大震災の頃までは濃厚に残っていたというのは、そういうことだろう。これすなわち、生活にまつわるあれこれの作業が未分化であったということでもある。例えば、家を建てるという作業を誰が担ったのか。古典落語では職人が大勢登場するが、落語の舞台は江戸や上方といった都市である。地方では職制が未分化で、共同作業というものがかなり近年まで残っていたようだ。

家を作るときだとか、屋根の葺き換えのときだとかには、近所互に助け合う規約が出来ていて、年々順番にやって行くようなところも多い。共有の茅野をもっていてそこからやはり順番に茅を苅り取ってその材料にしていたりする場合もある。

67-68頁

もちろん、家は建てて仕舞いではなく、保守管理が必要だ。屋根であれば定期的な葺き替えをしなければならず、当然、それも地域の共同作業になる。しかし、ここでも部材の生産にまつわる技術革新で事情は変化する。屋根瓦の生産は特殊技術であったのが大量生産が実現して一気に大衆化する。

あるいは藁は七年十年、茅は一代、柾は七年ないし十五年等と各々耐久年限にきまりがあるから、常に補いまた修理をすることを気にかけていなければならぬのであるが、瓦にすると一足飛びにそんな心配はいらなくなる。

66-67頁

民家はそこに暮らす人々だけのものではなく、地域全体の関心の対象であった。人々は互いに往来して茶飲み話をし、互いの状況を自然に感知し、家族という単位を超えて地域社会が営まれてきたのであろう。だから、民家の間取りは開放的だ。縁側があり、庇が深めになっていて、そこで外から来た人とちょっとしたやりとりができる。玄関入ってすぐ広い土間で、少し折行っての話があれば、土間の炉縁でやりとりをしたであろう。そうした応対がそこで暮らす人々の世界観や世間観、さらには倫理観や人生観に大きな影響を与えたはずだ。開放的な間取りと共同作業による維持管理という住環境が長らく続いた歴史の果てに、現在の蛸壺のような暮らしがある。「ウチ」と「ソト」の境界が開放的なかつての民家と現代の蛸壺民家との間で同じはずがない。なんだか自然な変化の流れには見えない。なぜだろう。

日本の農家の一般的な間取りは田の字型と言われる。大きな土間があって、土間を除いた区画が田の字型の間取りになっていることが多いのだという。土間が広いのは、そこが作業場として使われたり、来客を取り敢えず通す内と外との中間であったり、といった事情がある。土間には藁を使って生活に必要な道具類を作る際に藁を柔らかくするために使う藁打ち石が半分埋められている。ちょっとした生活用具は自分で作ったのだ。そして、おそらく生活の中で最も重要なのは、土間から床に上がってすぐのところに設けられている炉であろう。炉を囲んで食事をし、仕事もしたのである。ちょっとした来客の応対も炉縁で行われた。

宮本常一が炉について興味深い話をしている。以前このnoteで取り上げた『道の手帖 佐野眞一責任編集 宮本常一 旅する民俗学者』に宮本と水上勉の対談がある。その中でこんなことを言っている。

宮本
 …非常に問題になると思うことは、やっぱりいろりのなくなったことね。これは日本人の性格を変えてしまうんじゃないかと思う。
(中略)
戦前いなかを歩いていると、ほとんどランプだったのですが、いろりのある家じゃランプも使わない、いろりの火だけなんです。話を聞いていましょう。ノートを持っていって鉛筆で書く。三日もやっているうちに目やにがひどく出ちゃって、どうしようもないようになる。
水上
 すすですね。
宮本
 そういうときに、話をしてくれる年寄りも、聞いているこっちも、何の境もなくなるんですわ。
(中略)
なんか自分の持っている命を声とともに…。
水上
 吸い込んでいるようなところがありますね。
宮本
 ところがこのごろ話を聞きに行くと、がっかりする。「テレビを見にゃならん。テレビがすんでからにしてくれ」それは同じように、自分らの命を燃え続けさせるものが消え始めているんじゃないかという感じがするのです。

『道の手帖 佐野眞一責任編集 宮本常一 旅する民俗学者』 河出書房新社
171-172頁 宮本常一・水上勉 「対談 日本の原点」

私は囲炉裏のある家で暮らしたことがないので、火を囲んでどうこうするという実体験がわからないのだが、相手との境をうやむやにして語るともなく語り、聞くともなく聞いているということの豊かさのようなものは朧げに想像ができる気がする。幼い頃に暮らした棟割長屋には縁側があり、近所の人々とのちょっとした交流がそこにあった。それは時に鬱陶しいこともあったが、切らしてしまった米や味噌・塩・醤油の類の融通、逆に頂き物のお裾分けといった些細な日常の互助もあった。しかし、長屋の住人たちはほぼ全員が賃労働者で、賃労働であるという以外の仕事の共通性は全くなかった。

我が家に関しては、そこで多少の蓄えを成して引っ越した先は市街に出来た蛸壺のような共同住宅だった。俗に「マンション」などと呼ばれるドア一つで外界と遮断される閉鎖空間だ。隣近所で暮らす人たちとは、挨拶くらいはするけれど、それ以上のことは何もない。一つの建物の中で暮らしていても相互の関わりは形ばかりの管理組合くらいしかない。近所付き合いがないのは外部の煩わしさがない代わりに、家庭内の人間関係が重苦しくなりがちだ。外部の煩わしさは別の外部の煩わしさと相殺したり、外部から外部へ逃すことができるが、内部の重苦しさは相手が肉親である所為もあって逃れ難いと思い込みがちになる。それは、なんとなく危険である気がする。

生活の物理的空間の世界観とそこで暮らす人の社会的空間の世界観とが没交渉であるはずはない。どちらが先でどちらが後なのか知らないが、農業などの自分の手足を動かして直接的に生活に必要なものを作り出す暮らしと、賃労働者として定期的な給与所得で生計を立てるのとでは世界の見え方がたぶん違う。本書が執筆された頃の民家はもうどこにもないだろう。つまり、同じ国でありながら同じ暮らしではなくなってしまったということだ。

結局、本書の民家の話を読んで思ったことは、以前に宮本常一の本を読んで感じたことと同じだ。共同生活でしか生きることのできない人間が共同性から離れて個人の世界へと向かって進んでいるように見える。それは自滅の道を選択しているように思えるのだが、考え違いだろうか。

田の字の間取りについて、本書では出雲の神様を祀ることとの関連を示唆している。また、最初から農民であった人々の家の間取りと、平家の落武者の集落に由来する地域のそれとの違いについても考察されている。こうしたことにも思うところはあるが、それは別の機会に書くかもしれない。

本書だけでは今和次郎がなぜ民家研究にこれほど精力を傾けたのかわからないが、ひとつ言えるのは縁だと思う。東京美術学校の図案科に学び、恩師の建築家である岡田信一郎の紹介で早稲田大学の建築学科で教授をしていた佐藤功一の助手になる。そのまま早稲田で教授にまでなる。その佐藤に誘われて民俗研究のサークルのようなものに関わるようになり、そこで民家のスケッチや間取りの採集を担当した。その成果が本書であるらしい。この後、こんは民家を離れて「考現学」へと進む。民家を離れたのではなく、都市や集落全体を「家」に見立て「民家」の見方を発展させたのかもしれない。ちなみに、その民俗研究のサークルのメンバーは佐藤とこんの他に柳田國男、石黒忠篤、内田魯庵、細川護立、大熊喜邦、木子幸三郎、田村鎮であったという。本書のような自由な調査が可能であったのは、メンバーの石黒忠篤の力があったかららしい。

石黒は当時、農商務省の農政課長の席にあり、後に農林大臣に上るほどの有力官僚であったから、相当に自由がきき、農村の住宅と副業の調査などの名目で、報告書等一切なし、見たことをただ胸に納めておくだけの公務出張を「乱発」してくれた。

342頁 藤森照信 解説

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