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しのびよる指先(2)

 久々に道子を目にして、平野はメランコリックな気分になってしまった。
 嫌いになったわけじゃなかった……。彼女だって別れ際には涙を浮かべていたよな……。
 そんなことを考えながら、道子に声をかけたい衝動に駆られた。
 だが、この混雑では近づくことすら無理である。もちろんある種の気恥ずかしさと拒絶されるのではという不安もあった。

 それでも平野は渋谷に着いたら、車内も空くだろう。そしたら、きっと声をかけよう、と心を決めた。
 もしかすると彼女も懐かしがってくれるかもしれない。い や、きっとそうに違いない。そしてお互いの近況でも話しながら、一杯飲めたら最高じゃないか。
 そんな都合のいいことを想像しながら、元妻の横顔を見つめ続けていた。

 それにしても、道子は相変わらず美しかった。
 結婚式で友人連中が「おまえついてるな」と冷やかしたのも、あながちお世辞ではなかったはずだ。派手さはないが、楚々として整った顔立ちで、どことなく気品を漂わせるタイプの女だった。
 平野が三十歳、道子が二十八歳の時に離婚したから、彼女ももう三十一歳になっていることになる。

 だが、いまわずか数メートルのところにいる彼女は、もともとの上品な美しさに、三十代なりの艶っぽさを加えたような気がする。
 元妻が男好きのするいい女になっていることが、平野は何となく 嬉しかった。
「あのいい女、俺の前の嫁さんなんだぜ」と誰かに自慢したい気分だった。

 そんなふうに道子の美しさに改めて魅了されていた平野が、異変に気づいたのは数分経った頃だった。
 道子の表情がどことなくおかしい。時折、唇を嗜み、眉毛をピクピクと動かしている。何やら落ち着きがない。
 満員電車の混雑した中で、人と人の隙間から辛うじて見えるだけだが、その横顔は何やらただならぬことに直面して困惑しているように見えた。

 平野は周囲の人の冷たい視線を感じながらも、無理やり体の角度を変え、道子がよく見える体勢になった。
 彼女は目を閉じていた。眉間に時折しわを寄せているのが見える。
 もしや……痴漢?
 そう思って視線を移すと、道子の真後ろに野卑な感じの大柄な男が立っているのに気づいた。

 四十代半ばのその男は、明らかにサラリーマンではなかった。髪をポマードでぴったりとオールバックに固め、電車内なのにサングラスまでかけている。
 水商売か業界関係か。堅気の仕事でないことは一目瞭然だ
 その男が不自然なくらい道子の背中にぴったりと密着して立っているのだ。

 その時、道子の表情に変化が起きた。
 目を閉じたまま、顔をわずかに上げ、まるで「あっ」と口走るような形に唇を開いたのだ。
 それは周囲の乗客には気づかれなかったが、道子を凝視していた平野にははっきりわかった。
 道子が痴漢されていることはもう間違いない。
 道子を助けなければ・・・・・・。

 はじめ平野はそう思った。
 だが、この混雑である。彼女のところまで近寄るのは到底無理だ。
 かといって大声を出せば、かえって道子に恥をかかせることになる。慎ましやかな道子にとって、自分が痴漢されているということを公衆に知られるのは耐えられない恥辱に違いない。
 平野は自嘲することにして、彼女の様子を見守った。

 ところが、しばらく注意深く彼女を盗み見ていると、どうも様子がおかしい。
 平野は、てっきり道子が痴漢の被害にあって困っていると思い込んでいた。
 だが、何やら様子が違うのだ。
 平野の心に、思いがけない疑念が浮かんできた。
 そんなはずはない。そんなわけないじゃないかと何度も打ち消そうとした。
 だが、大柄な男に後ろから、まるで抱きすくめられるように立っている道子は、苦悶の表情を浮かべながらも喘いでいるように見えた。
 そんな元妻を見ているうちに、認めたくないという平野の抵抗は無駄に終わった。
 道子は、感じている……。

 それは電車が新宿駅にすべり込んだ時に、疑いようがないものになった。
 新宿駅では、多くの乗客が降りる。そして、降りた乗客よりもたくさんの新しい客を積み込んで、また超満員状態で発車するのだ。
 つまり、新宿で逃げようと思えば、彼女は逃げられたはずである。
 だが、道子はその男のそばを動かなかった。そればかりか二人揃って人目につきにくい車両の隅へと移動していったのである。
 平野も、何かに憑かれるように、二人がよく見える位置へ移動した。そして、山手線が発車すると、再び道子を監視し続けた。

 男の両手は下に降りているから、その動きを伺い知ることはできないが、角度からして未知の尻のあたりを触っているのは間違いないだろう。
 道子の顔が時折歪む。息遣いが粗くなり、透き通るような白い顔が赤みを帯びてきているようにさえ見える。
 唇を噛んで、必死で堪えている姿がいじらしい。
 それでも抑えきれないのか、唇に指をあてている。身体をくねらせるために、何度も首が折れそうになり、肩まであるストレートの髪が揺れた。

 気がつけば彼女は背後の男にしなだれかかり、すっかり身体を預けてしまっていた。そればかり愛撫にびくんびくんと反応まで示し始めている。
 大柄な男はもはや彼女を完全にコントロールしているようだ。サングラスの下の目がニヤっと笑うのが見えた。
 そして、周囲伺ってから、大胆な行動に出た
 なんと道子の首に唇をあて、舌を出してその首筋を舐め上げたのだ。
 道子の頭が大きく揺れた。
 さらさらとした黒髪が男の顔に垂れかかる。

 その時、道子が男の方を振り返った。元妻がやっと拒絶の反撃に出るのだと平野は確信した。
 だが……。期待はあっさり裏切られた。
 振り向いた道子の目は淫女のそれだったのだ。妖しく哀願するような表情で、道子は男を見つめたのである。

 男が、道子の耳に唇を近づけて、何やら囁いている。
 言葉とともに吐息も吹きかけられたのだろう。彼女は肩をすくめながら、かすかにうなずいて男の言葉に応えている。
 そして山手線が渋谷駅に到着すると、他の乗客から少し遅れて、何事もなかったように道子は男と列車を降りていったのだった。


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