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4月14日 説教「愛と知識」

コリントの信徒への手紙一 8章1‐6節

1. 偶像に捧げられた肉について
 パウロは、コリントの教会からの手紙の新しい問題について8章から取り扱っています。この問題もコリントの教会の人々の日々の生活に直接関係する具体的な問題です。「偶像に捧げられた肉について」とパウロが言っていますが、クリスチャンが異教の神に捧げられた肉を食べてよいかどうかというのです。

 「偶像に捧げられた肉」を食べるということがどうしてクリスチャンにも関係することなのか、どうしてそのようなことが起こるのかその背景を調べてみますと、コリントの町だけでなくギリシャの町にはいろいろな神々が崇拝され、その神々に供え物をすることは人々の生活に切り離せないことだったようです。その供え物には、動物が使われていました。また供え物には私的と公的なものがありました。
 私的な献げ物の場合、動物のすべてが捧げられていたわけでなく、肉の一部が焼かれ、残りは祭司がその権利で受け取り、他の残りの肉は、供え物をした人がお祝いなどの宴会を開いて晩さん会を開いて人々を招待していたようです。公的な献げ物では、しるしばかりの肉が捧げられ、残りはやはり祭司や役人が受け取って、余分な肉を市場などに売っていたようです。このようなことから、日常の食事のために市場で肉を買っても、すでに偶像に捧げられた肉である可能性がありました。さらに、結婚式や晩餐会に呼ばれての食事も、異教の神に献げられた肉であることがほとんどであったようで、ギリシャに住んでいるキリスト者が異教の神と関係のない肉を食べることは不可能に近かったというのが肉についての問題です。

2. コリントの教会での問題
 コリント教会では、「異教の神にささげた肉を食べることを全く問題にしない人たち」と、「異教の神に捧げられた肉をたべることを問題に感じる人たち」がいました。そこで、パウロにこの問題をどのように考えたらよいのかと聞いてきたわけです。
 異教の神にささげた肉を食べることに問題を感じる人たちについては、7節以下に詳しく書かれていますので今日はあまり触れません。
 今日の所はコリントの教会で「異教の神にささげた肉を食べることを全く問題にしない」人々についてのことについてパウロがどのように考えているのかということについて御言葉に聞いてまいりたいと思います。
 それが、4節以下に書かれています。
 その人たちは「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神などないことを、わたしたちは知っています」と、イエス・キリストが唯一の神であるというしっかりとした信仰告白を持っている人たちです。このりっぱな信仰告白を持っている賢い知識を持った人たちについて、パウロも1節で「確かです」と同意しています。
 実はわたしたちも、礼拝の中で信仰告白をそのようにしています。
 ところが、パウロは、「自分たちは正しい信仰の知識を持っている」ということに対して「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」と知識を持っていることはその人を高ぶらせる」と語るのです。彼らの言う「世の中には偶像の神などいなく、まことの神は唯一の神以外はいない」という信仰を、パウロは「知識だけの信仰はあなたを高ぶらせている」と指摘します。そしてさらに2節で「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。」と厳しく勧告をしています。

 みなさんはこのパウロの指摘をどのように感じられたでしょうか。
 「神さまのことを正しく知っている」、という知識だけの信仰は人を高ぶらせるというのです。異教の地で信仰生活をするキリスト者は、このパウロの鋭い指摘を心からへりくだって聞かなくてはいけないと思いました。この正しい神を信じているということが、その人に優越感をもたせ、同じように信じることの出来ない人々への思いやりを失ってしまう危険があるとパウロは警告しています。教会の交わりにおいて何より大切なのが弱い人を思いやる愛だとパウロは語っています。

 偶像について旧約聖書のイザヤ書44章に書かれています。イザヤ書44章15節(p1133)にこのように書かれています。

木は薪になるもの。
人はその一部を取って、体を温め、
一部を燃やしてパンを焼き、
その木で神を造ってそれにひれ伏し
木像に仕立ててそれを拝むのか」

       イザヤ書44章15節


とあります。この御言葉をある時読んで、偶像のことを本当に見事な表現でよく言い当てていると感心しました。ただの木で造った像にすぎないと。
 けれども、パウロは、長い間偶像の神々を素朴に本当に信じてきた人々にとって、偶像が偽物の神であっても、たとえキリスト教の信仰を与えられても、その人にとっては拭い去ることの出来ない習慣的な信念のようなものがあると考えるのです。そして彼らの弱さを、愛をもって理解するようにと語っています。
 ですからしっかりとした信仰の確信のある人には、偶像に供えられた肉がただの肉であっても、そのような弱さを持った人には、偶像に供えられた肉は、ただの肉ではなくこれを食べることで悪霊が取りつかないかとか、食べることは悪いことだと良心に痛みを感じながら肉を食べるということが起きると考えました。ですからパウロは「信仰の弱い人たちを思いやれる愛の心を持たなくてはいけない。」と語るのです。偶像に捧げられた肉を食べることに何の問題はないとの「知識を持った人」が自分の立場でしか考えない隣人への愛の欠如があることを指摘しました。

3. 信仰に愛を
 このパウロの指摘は、信仰について、教えのどこにも間違いのない正しい知識を持っているだけではいけないということです。それが「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」ということです。人を造り上げるには、知識だけでは高ぶりの罪を犯してしまいます。ですから、信仰についての知識に神の愛を加えなさいというのです。
 ですから伝道といいますのは、こちらの正しさを主張し伝えるだけでは足りないということを教えられます。福音とは、イエスさまが弟子たちに教えられたように、ただ律法や戒めを守ることではなく、律法や戒めを越える愛をもってその人に気持ちに寄り添い祈るなかに神さまが働いてくださるということではないかと思いました。
 
 パウロと同時代を生きた使徒ペトロも第二の手紙で「あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(1:5-7p436)と勧めています。
 
 以前、信仰によってキリスト者は自由になったということで、コリントの教会の中で、不道徳な行いを誇っている人々があったように、偶像に捧げられた肉を何の問題も感じずに食べることの出来る知識を持った人たちは、信仰のゆえに偶像に捧げた肉を食べることに何の良心に痛みを感じていませんでした。それは自分の信仰が強いからだとごう慢にも知識を誇っていたのです。知識を持った人にとっては偶像の供え物の肉であっても、偶像が人の手によって造られた像であるという知識によってただの肉でしかないのです。
 けれども、長く偶像を信じて改宗した人にとっては、偶像に供えられた肉は、決してただの肉とは思えず、心に痛みを感じ、異教の神に戻ってしまう誘惑になるという恐れをもつ人もあるとパウロは考えました。ですからパウロは弱さを持った人が、信仰者として成長していくように人を造り上げるためには、知識を誇るのではなく、弱い人への思いやりと愛によって行動するように勧告しました。
 パウロが教会の仲間に加えられた人に思いやりと愛を示すようにと言うのは、神さまがまずその人を神さまが選ばれ愛されて教会に導かれたからです。その神さまの愛にお応えするために、弱さを持った教会の仲間に思いやりと愛を示すようにと勧告します。
 わたしたちは、日々神さまを知ろうと御言葉を読み、祈りながら、共に歩む兄弟姉妹を心に覚えて愛の交わりの中を歩みたいと思います。