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『ほんのこども』

『ほんのこども』町屋良平 講談社
この小説はなかなか読み進められなかった。とても緻密な文章で描写の解像度が高く、かなり深く内省したり、哲学的でもあった。そしてなによりそんな細かな描写の一方で、意図的に曖昧にして読者は宙吊りにされ、距離感を操られているような気分にさせられる。

町屋良平の私小説、と思われる流れがはじまる。生い立ちから最近の創作活動に至るまでを振り返り、最近のかれはどんな評価がなされて、それをかれ自身がどう考えているか、赤裸々に綴っているかのようだった。その後読者は翻弄される。途中から代名詞「かれ」が頻出し、振り回される。



まず町屋良平が過去の自分を「かれ」と呼び、つぎに小学生時代からの友人あべくんのことも「かれ」と呼ぶ。それだけではない、町屋良平が小説を書いているのかさえ曖昧になる。町屋良平は告白する、あべくんの書く散分を真似てきた、と。あべくんは既に死んでいるけど、かれの遺した散文を模倣し取り込んでいった。それが町屋良平の礎になったのだから、この小説は町屋良平が書いたものであり、あべくんがいなければ書けなかったともいえる。

あべくんのまわりにはいつも暴力があった。かれの父親はかれの母を殺し、かれは人殺しの子どもとして育った。そんなかれもめちゃくちゃ強くて、かれの暴力は頼りにされ、それを生業にもしていた。人を懲らしめ、殺すことをためらわないからよく頼られた。そんなあべくんは本も好きだったから、アウシュヴィッツの記録を好んだ読んだ。虐げる側と虐げられる側、その両方の記録を読んだ。殺す側と殺される側の実感と本の中の記録を重ねながら編まれた文章だった。

人称のみならず行為や心の所有者が誰かわからない曖昧な文章を、警戒しながら読んだ。それは作者の意地悪なのか、その先にどんな意図があるのか気になった。後半に差し掛かるころにはそんな文章にも馴れて、意図を感じ取れるようになってきた。あくまでもぼくの主観でしかないけれど、2つの創作的挑戦を感じた。

ひとつは「暴力」を読者に投げつける効果があると思った。1-2-3人称のどれで書いても読者である以上は登場人物の誰かの暴力になってしまう。「かれ」が町屋良平なのかあべくんなのかどうでもよくなってくると、1-2-3人称のどれにも当てはまらない「暴力」を読者は受け取ることになる。暴力は振りかざす者と虐げられる者の両者がいて成立する。所有者不在となった暴力のイメージの塊は小説の中からはみ出し、読者に投げつけられている気がした。


もうひとつは小説とは何かを問うていると思った。作者は町屋良平であるものの、あべくんから多大な影響を受けており、作家としての町屋良平の中にはあべくんというOSが常に走っているともいえる。だからそれ無くしてこの小説は存在し得ない。小説は誰が書いているのだろう。先人の小説があり、編集者に助言されたりアイデアをもらい、取材相手の言葉があったり、校正者に手直しされたり。著作権は著者に属する、でもその作品が作家だけのものとも言えない。それは町屋良平がすごいのかもしれないし、かれが真似るのが上手いのかもしれない。どこからが小説なのかは著者なのかは定義できない。



『ほんのこども』は、ほんの子ども(小さな子ども)、本の子ども(本で育った子ども)、ほんのこ共(ほんのこ、とはあべくんが一時在籍した児童保護施設)。タイトルはいくつかの意味が取れる。本がキーになっているのは間違いない。小説と現実とは曖昧で、だけど賞を取ったような作家は思いっきり書くことが許される。それはある意味で書くことの権力のようなものだと思う。町屋良平は何が書きたかったのだろう。身体的な暴力だけでなく書くことに備わる暴力性のようなものも含めて、作家や小説という概念自体を壊してみたのだと思う。そういった意味で、本のこども(本になる前の本)なのかもしれない。

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