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ゾンビを見る視線

WORKSIGHT 18 われらゾンビ We Zombies 】WORKSIGHT編集部 学芸出版社
ぼくはゾンビ映画をあまり見ていない。だからゾンビについて考えることもなかった。不死身の肉体が迫ってくる恐怖、噛まれたら自分もゾンビになってしまう恐怖、逆に彼らを叩きのめす爽快感みたいなのがあるのだろうか。

品川駅のコンコースを歩くサラリーマンがゾンビのようだと話題になった。その光景は海外からの人々の観光スポットにも客のなっているらしい。職場へと向かうたくさんの人たち、無表情でスーツで身を固めた彼らは意志あるいは意識がないように映り、ゾンビに喩えられるのはわかるような気がした。ぼくだって満員電車を受け入れて通勤したことがあるから、ゾンビだったと言えなくもない。確かに身体は仕方なしに職場に向かっていたものの、頭の中は何かを考えていたはずでゾンビと言われると否定したくなる。

資本主義は人をゾンビにさせる。会社に身を捧げるサラリーマンゾンビ、便利や豪華さに煽られて消費するゾンビ、金儲けに邁進する守銭奴ゾンビ。意志がなかったり、意志を乗っ取られたような状態をゾンビというのだろう。

本書の論文『ゾンビ宣言』を読むと、ゾンビの由来は資本主義にあることがわかる。ゾンビはカリブ諸島のハイチのアフリカ奴隷を指した。この地域では「魂のない身体」「身体のない魂」のことをzombieと呼んでいた。不条理な状況下にあった彼らはあるとき蜂起する。ブードゥー教の神を信じ、怖いもの無しに立ち向かった。それがハイチ革命となりフランスから独立した。フランス人の視点では、命を惜しまず襲いかかってくる彼らはまさにゾンビだった。

このゾンビの始まりを知ると見落としている部分が見えてくる。ゾンビの恐怖は支配する(しようとする)側のの恐怖を戯画化したものなのだった。人間がゾンビになることはなく、仕方なしに集団行動していてもそこには気分や感情がともなっているはずだ。

気をつけなければならないのは、とくに経済やビジネスの世界では人々を単純なモデルとして把握しようとする。経済合理性に基づいて行動するホモエコノミクスとして想定したり、国民性や企業文化でそこにいる人たちを単純化したりする。誰しもが自分自身の複雑さをわかっているはずなのに、そう見てしまう。
便利や快適のために地球を壊しているぼくらはゾンビなんだと思う。でもそれぞれがユニークであってゾンビではない。最近の作品では、噛まれてから発症するまでや人間であった頃の記憶が微かに残っているゾンビが描かれるらしい。

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