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つぎのごはん

少し長くなります

学校に行きたくない、行けない、行こうとすると具合が悪くなる、そう言うこどもたちの話をよく聞く。

一方で、果たして自分は学校に行きたくて行っていたか、振り返ると「行きたくて行っていたわけではない」と、思い返す。過去の学校生活で何が苦しかったのか、思い出そうとしてみる。例えば、グループ分けしなさいといわれた時に自分だけあぶれたらどうしよう、とか、自分だけ忘れ物して浮いたらどうしよう、とか、自分だけうまくできなかったらどうしよう、とかいう恐怖にしょっちゅうさらされていたように思う。「すすんで○○するいいこ、先生にほめられるいいこ」になりたいと思う反面、先生に望まれていないことをすすんでやると、こっぴどく叱られる、という結構ギリギリの選択肢の中で、生きていたんだと思う。何が望まれているかなんて、わかんないし、望まれていることと自分の望んでいることは大抵異なる。
そう振り返ると、そんなところに、よく毎日行っていたなあと感じたりもする。

学校生活はただ抑圧的、排他的なだけではなく、見せかけ上は「自分で考える賢い子」を目指す、とか言われる。自分で考えて行動することには失敗がつきまとうにもかかわらず、失敗はゆるされないし、すすんでオトナが望まないことをしたら叱られるし、その価値観はこどもたちのなかにも浸透していくし、そんな殺伐とした世界で「のびのび育つ」「新しいことを発見」なんてことあり得ないのではないだろうか。

学校に向かう小学生中学生が、歩き方は不自然なほど静かでゆっくりで、顔はうつむきがちで、表情なく、言葉は少なく歩いている姿を見ると、「学校に行きたくないのかなあ」と思う。

翻って、ではいやなことばかりだったか、と思うと、そうでもない。何を楽しかったと感じて今も記憶しているのかも、考えてみる。
給食で好きなものが出る、特別なご飯が出る、調理実習がある、みんなで育てたじゃがいもを収穫してこふきいもをつくる、などがあるとわくわくしていたことを、思い出す。

面白いことを言った友達の頬をくしゃっと崩した笑顔や笑い声、体育館からぼーっと見上げた空、友だちと寄り道して食べた木イチゴ、自分の出会った蛙について小話と鳴き真似をしてくれた先生の顔、夏休みの最初の日、不良と言われていた子と仲良くなれた日、授業を急遽とりやめてこっそり運動会の練習をした時間…。

つまり、あらかじめ決められたことではなく、イレギュラーに周りの人が起こしてくれた降ってくるプレゼントみたいな時間だ。特に食べものにからんでいると最高だ。食い意地で生きていますね。ほほ。

それは自分だけではなかなか作り得ない、他の人との化学変化の中で起こるびっくり箱みたいな存在で、自由な時間や空間がないと起こりにくいことで、そういうことが起こるから人が集まるのだ、という意味にすらなりうるものではなかろうか。
それに、食べることが楽しみって、生きることが楽しみってことだよね

そうか、人生にはたのしいびっくり箱がたくさんあるから、楽しいのだ。

ごはんを楽しみにしよう。次のごはんまで、なんとか生きてみよう。


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