笑う門

日々考えたことを書いています。仕事上、人の話を聞くことが多いです。

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最近の記事

絵本をえらぶ

ちょっと気を緩めると、蛇口がゆるむように、なみだがでてくる。 最低限の毎日を運ぶことがやっと精いっぱいで、這うように時間を過ごす。 窓の外でぽとぽとと落ちる雨が、自分の中にたまっていく気がする。 自分の周りの出来事ひとつひとつが、ちくちくとささってくるようで、だれにも会いたくない。自分に向かう声にも、視線にも、指先にも、ぐっと身構える。 そんなときには、無理して人にあわなくていい いやなことから、できるだけ逃げていい 自分の中から出てくるちいさな声を聞き逃さないように、好

    • 手紙を読む

      手書きの手紙を書くことが、減ったなあ。もらうこともほとんどなくなった。だからこそ、たまにもらう手紙はとてもうれしい。 わたしは物を捨てるのが苦手だ。 でも、大人になるにつれ、「わたしは何に家賃をはらってるねん」と少しは物を捨てられるようになったものの、まだまだ捨てられない病は根深く残っていて、その上片付けが苦手なもんだから、こまる。 その捨てられないもののひとつが、もらった手紙 である。 年賀状はこの間10年以上前のものをやっと片づけた。本当にとっておきたいもの以外をやっ

      • ♪さんぽ♪ を歌いながら

        山登りの時、しんどくなったら、後ろ向きに歩くといいよ、とか 歌うといいよ、とかの、「山登りあるある」ってありますよね。 山登りのときではなくても、毎日はときに山登りのように歩き続けるのがしんどいことがあります。 一歩踏み出すのが面倒で、布団から出ることすら気持ちが向かなくて、もう明日なんて来ないといいのに、と思ったり こどもが駄々をこねる、ってこういうとき。でも大人だって、こねたい、駄々。 でも駄々をこねられるのは、相手がいるからで、その相手が自分を見限らないと自信を持っ

        • ビーフストロガノフをつくる

          なおりかけのかさぶたをはがすような、傷に塩を塗るような。 例えば恋が破れたあとに 「一緒に行こうね、ディズニーランド」と言っていたことを、駅のポスターのミッキーマウスを見て思い出したりする。 初めてご飯を食べた渋谷を電車で通っただけで、思わず涙ぐんだりする。 ミッキーも渋谷も悪くない、それはわかっている。 でも、止められない、もはや、ミッキーすら憎んだりする。にやにやいつも笑いやがって、とか言って。やつあたり。 思い出さないために、いつもと全然違うものを作ってみる。 手

        絵本をえらぶ

          好きな本屋さんに遠足

          家から少し離れているのですが、好きな本屋さんがあります。 静かで、店主さんが選んだであろう本が丁寧にテーマごとに並べてあります。 この棚は『旅』、こっちは『料理』、あ、こっちは『歌』、こちらは『孤独』。 その日によって、ひきつけられるテーマは異なるのですが、まずは全部の棚をじーっと堪能します。今日は『孤独』でした。 呼んだことのある好きな本を見つけたり、その隣にある本にひきつけられたり、いつか読んでみたいと思っていた憧れの本をなでてみたり、至福です。 遠足自体にたのしみ

          好きな本屋さんに遠足

          なまえを呼んで

          誰かが自分の名前を声に出して呼んでもらう。 眼を閉じて想像の中で、高校の時のあのこに、家族のあのひとに、あこがれのあのひとに、テレビに出ていたあのヒトにも。 これからもきっと会えないかもだし、でも会ったことなんてないあのひとにも、なんならアニメの理想のあのひとにも。 こうなったら、だれかれ構わず、出演してもらう。 すきなひとびとに、これでもかって言うくらい、しつこいくらい何度でも、呼んでもらう。 だんだんと、下っ腹のあたりがしっかりしてきて、あたたまってきて、自分がここに

          なまえを呼んで

          毎週金曜日のラジオ

          一日は長いけど、一週間は短い。 一年は、なんとなく短いような気がする。なんでだろう。 だから、今日をなんとかがんばろう、よりも、次の金曜までなんとかやりすごそう、の方がちょっと元気が出る。 栞みたいな、付箋みたいな、ここまで行くぞの目印。 しかも、金曜日には好きなラジオ番組がある。podcastの配信もある。 聴くと、ああ、ここまでなんとか乗り切れたと、肩の力が抜ける時間を持てる。 ラジオはお風呂で、電気を半分暗くして聴いているのが、すきだ。 眼をあまり使わないで、少し

          毎週金曜日のラジオ

          つくってもらえたご飯

          生きていると、自分の価値がぐらぐらとゆらいでしまうことがある。 不注意で失敗してしまったときとか、落とし物してしまったときとか、がつんと不機嫌をぶつけられたときとか、転んでしまったときとか。 情けなくて、涙が出てきて、こんなことくらいでなんであたしは凹んでんだと自分でも自分をバカみたいだと思ったりして。 そんなとき、そんな風に、自分がここにいる意味を感じられなくなった時、 顔の見える誰かにつくってもらったご飯は、腹の底からわたしを支えてくれる。 私のことをなにも知らなくて

          つくってもらえたご飯

          二度寝

          今日は、泣かなかった、少ししか。 どかんとつらいことがあり、数か月なんとか仕事だけ最低限やり過ごし、ひとりになると吐くように泣いていた。 油断をするとすぐ涙腺がゆるゆるぐだぐだになるので、いつも気を張っていた。 もう朝が来てほしくないと思いながら、やたらと眠った。 仕事がない日は、二度寝とも言えないくらい、三度も四度も眠った。 たくさん夢も見た。 お財布を拾ってくれた人が、なぜか『今じゃなくて、あとで取りに来て』と叫んでくれた夢。なぜ叫んでたんだろう。 パーティのような

          ガッツ石松さま語録

          「私の将棋は王将取られてからが強いんですよ」 ガッツ石松 んなわけあるか!?とツッコミ、でもなんかありそうな言い回し。一瞬、そうかも、と思わせてしまうどや顔。 周囲からの圧力や、自分の頑なな思い込みにつぶされそうになった時、ガッツ様の語録をみる。すると、自分の考えがとてもつまらなく小さく思え、どうでもいいかと、放り投げられるようになる、もちろんいい意味で。 「喧嘩でも何でも『よっしゃ〜!』って気合入れたときは強かったな。ボクシングの戦績見ても、ここぞというときは勝ってる

          ガッツ石松さま語録

          つぎのごはん

          少し長くなります 学校に行きたくない、行けない、行こうとすると具合が悪くなる、そう言うこどもたちの話をよく聞く。 一方で、果たして自分は学校に行きたくて行っていたか、振り返ると「行きたくて行っていたわけではない」と、思い返す。過去の学校生活で何が苦しかったのか、思い出そうとしてみる。例えば、グループ分けしなさいといわれた時に自分だけあぶれたらどうしよう、とか、自分だけ忘れ物して浮いたらどうしよう、とか、自分だけうまくできなかったらどうしよう、とかいう恐怖にしょっちゅうさら

          つぎのごはん

          毛布くんくん

          やらなくちゃいけない、やりたくないこと。 いかなくちゃいけない、いきたくないところ。 そんなことのもろもろに、向かい合わなくてはいけないときに、毛布に顔をうずめて、くんくんくんくんと、匂いをかいでみてください。 好みとしては、綿毛布です。毛の毛布というよりは、綿。ガーゼ素材も好きです。やわらかいタオルケットもいいですよね。はあー。いいにおい。 呼吸がゆっくりになって、手足があたたかくなって、おなかがゆるんで、頭の重さがかるくなって、ほーら、気持ちも少し楽になる。 何かが

          毛布くんくん

          さくらももこ

          うまくいかないことが、重なることって、あるんですよね。 くそう、なぜ今なんだ、と思うんです。でも、ほかならぬ今なんですよ、いやなことが重なるのは。 ひとつずつなら、なんとか乗り切る元気もでるってもんですが、ふたつ、みっつと、重なった日には、だだをこねるしかありません。 しかし、しかし、だだをこねるには、相手が必要です。 おとなが、だだをこねても、優しいほほえみでよしよしとなでてくれるような、よしながさゆりさまのような、相手が必要です。 そんな相手が、そんなに都合よく、暇をも

          さくらももこ

          ま〇ごとバナナ

          中学生のころだっただろうか、おそらく親にしかられて、ふてくされて、鼻息荒く、家から少し遠くの公園の周りを歩いていた。何で叱られたかは、残念ながら覚えていない…(それじゃ、だめじゃん…) そんなに怒ることか、ふざけんな、自分だって○○のくせに、ああ腹が立つ、もうむかつく、ぬあーおさまらない、どうしたらいいんだろう。 ふと、周囲の大人がいつも「苦虫かみつぶした」顔ばかりしていることに気がついた。なんでだ?困ったなあ。あんな風におとなになるのかな、やだな。 そして唐突に、自分

          ま〇ごとバナナ

          生きる力を保つ

          暴力、差別、虐待、侮辱、病、恐怖、どれも、生きる力を削ぐものです。そしてそれらは、私たちのすぐ隣に、頭の上に、足下に、探さずとも存在しています。 「どうせ、自分なんか」という卑下や、知らないうちに自らにつけている言葉の呪いの足かせを、なんとかはずすことができないだろうか。それは、誰かがしてくれることではなく、自分で疑って外そうとしなければ。少しずつでも、その営みをできないだろうか。 そういういやなことに、対峙して生きていこうとするとき、人が持ちうるものとは何なのか、考えて

          生きる力を保つ