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うつわの話

 調理が終わると、盛り付けはどの皿にしようかと食器棚の前に立ちしばし考える。この料理にはどのうつわが合うかな。カレーライスならこのオーバル皿、煮浸しなら小ぶりの片口、油揚げをあぶったものには厚みのある長皿を、なんて。

 ここ数年、うつわは気に入ったものを1枚ずつ買うことが多く、そのせいで形はばらばら。食器棚の中でランダムに重なっていてちょっと危なっかしく、重みのあるものはうつわとうつわの間に古布をはさみ、お互いがケンカしないようにそっと仕舞っている。そんな陳列状態を眺めるのもとても楽しい。けど家族には出し入れしにくくて不評である。

 食器棚に積まれている不揃いなうつわを眺めていると、「器が大きい」「器が小さい」という慣用句はなんて言い得て妙なんだろうと思う。
 人の器の大きさはそれぞれで、さらにひとはいくつもの大小の器を持っている。器は使っているうちにいつのまにか欠けるしキズがつき、うっかり落とせば壊れてしまう時もある。壊れたうつわは潔く処分するのか、それとも継いで再び使うのか。自分の器の小ささを感じるたび、いっそのこと古びるだけでいつまでも壊れないプラスティックの器ならラクなのにと思うこともある。

   ふう。

 わたしが自分の中にある小さな小さな器を感じるのは、むすこの野球の試合を見ている時だ。

 野球少年のむすこ、中学校部活のチームではすっかり補欠の座に留まっている。それでも今年の夏前まではやる気満々で、夕方部活から帰り玄関ドアを開けると同時に「オレ、野球が好きだわー!」とわざわざ口にして台所に立つわたしを笑わせてくれた。でも夏以降、スタメン入りが完全に見えなくなってから野球に関して彼から屈託のなさが消えた。

 そんな彼を見ているので、夏以降のわたしはチームの試合に対しテンションが保てずにいる。試合は「見ても地獄、見なくても地獄」な心持ちで、見ればわが子の振るわなさに地獄、見なきゃ見ないで今日は打席に立てたのか守備に立てたのかと気になって地獄。どっちにしろ気持ちの上では八方塞がりだ。
   そんなだからしばらく見に行くのをやめた時期もあったけど、どちらを選んでも苦しいのなら「見て地獄」の方がいいのかもしれないと先日は久しぶりに気持ちを奮い立たせてグラウンドに向かった。

 むすこの出ていない試合を眺めていると、わたしの「器の小ささその①」がむくむくと顔を出し始める。

 チームメイトのエラーを願ってしまうのだ。

 わりと懲罰交代が行われるチームなので、エラーで選手交代になることがある。そうすれば補欠組にもワンチャンがあるかも……と考えてしまう。とはいえ、試合を連続で見ていてうっすらこわい事実に気がついてしまった。
    レギュラー選手のエラーの1回は何10回とある守備中に起こった1回、対して補欠のエラーは貴重な出場チャンスの中の1回。そもそも1回の重みが違うのだ。よって、エラーで懲罰交代が課せられるのは補欠選手だけ。
 むすこがグラウンドに立つ姿が見たいのに、いざ彼が守備に立つとわたしは懲罰交代を恐れて胃が痛くなり、これもまた地獄。

 そしてグラウンドからは、時に母親強襲クリティカルヒットが放たれる。ある日のそれは打席に立つむすこに放たれた顧問からの「おまえは1年生以下じゃ」という叱責(むすこと顧問の間では「鼓舞」なのかもしれない)の言葉で、わたしは帰りの車を運転しながら「以下、以下、以下かあ……」と口の中でもぐもぐ反芻しながら涙がこぼれた。
 私も厳しい指導者の元でスポーツをした経験があるのでなんとなくだがわかるのだ。指導者の叱責には「違い」がある。プレイの調子が良い選手に対する叱責と補欠選手のそれは、言葉選びもテンションも大きく違い、むすこに対するこれを聞くのも地獄だった。

 そして練習試合ではなく公式戦になると、わたしの「器の小ささその②」が顔を出す。
    頑張るナインを目の前に(当然むすこはいない)、そして応援に励む保護者を横目に、勝敗などどうでもいいと思っている自分がいる。これに比べたら、練習試合でチームメイトのエラーを願うくらいかわいいもんだ。グラウンドの試合に当事者意識が持てないので、どちらが勝とうが負けようが結局のところどちらでもいい。全力で勝ちを願う応援席の熱気をよそに、勝てばよし負ければ残念と、その程度の感情しか湧かない。このどうしようもない器の小ささに気がついてから、わたしは大会を見に行かなくなった。ちぃーせぇ器の自分、これこそ真の地獄である。わたしのような保護者が公式戦の応援席にいるべきではない。

 そんなしんどい日々の楽しみはドラマ「下剋上球児」。試合から帰宅後わたしはドラマを見てさらに自分を痛めつけようと試みる。泣きたい。もっと泣きたい。
 「たかが部活、誰の役に立つわけでもない」というナレーションに、そうなんだよわかってるし!中年になった時に中学部活の活躍とか自慢するヤツは痛いし!それでも親は苦しいんだいとおいおい泣き、南雲先生の「楽しんでナンボでしょう」という言葉にうなずき、さらに「野球うまくなるには実戦がいちばん」にウチの子試合に出れないんですぅ!いつうまくなりますか!レギュラーとの差開く一方ですぅ!とすがりつき、なんなら南雲先生についていきます!!!!とまた泣く。涙は心の汗。浄化。支離滅裂。

 しかしながら面白いのは当の本人のむすこで、「野球好きだわー」の屈託のなさは消えたものの彼は部活動を楽しんでいる。試合に出られない悔しさはあっても、それでもいつかと思っているのだろう練習はサボらない。チームメイトがめきめき力をつけている中で自分が振るわなくなってきているのを自覚した上で、時折狂ったように素振りをしている。

 何より野球部を見ていて好ましいのはチームメイトの仲の良さで、人間関係に関しては強豪チームにありがちなヒエラルキーも見当たらず(心の内はわからないが)、表面上に殺伐とした雰囲気は皆無で少年たちはいつも和気藹々と楽しそうである。

 ある日、むすこは休日にチームメイトを自宅に呼んだ。おそらく「うちに集合な」という雑な連絡だったのだろう、小一時間の間に小刻みにインターホンが鳴る。いっぺんにまとめて来いや??と半ばキレそうになりながら対応し、はいいらっしゃい、はいいらっしゃいと家の中へ迎え入れた。

 わたしがダイニングテーブルで仕事をしていると、リビング横の和室から声変わり中のカエル声の叫び声や笑い声が聞こえた。しまいにはスピーディーワンダーの歌まで熱唱している(英語の授業で習ったらしい)。そういや反抗期で親に対し「試合に来るな」と冷たく言い放つという子も、さっきはニコリと礼儀正しく挨拶をしながらリビングを横切っていったっけ。彼らの様子は、親御さんから聞く話、そして何より試合で見る顔とはずいぶん違い、私服だと当たり前だけど単なる幼い中坊。いつも思うんだけど、中学生という年代の子どもはどうしてこう中途半端な顔つきをしているんだろうと、なんとなく楽しくなった。

 麦茶と共に袋のスナックを和室へ投げ込むと「あざああああああすっ」と元気なお礼が返ってきた。6畳和室にぎゅうぎゅうと寝転ぶ男子。自分のテリトリーで寛ぐ子どもの姿を見るのってホント幸せである。グラウンドでは彼らの試合を冷めた目で見ていたけど、今日のわたしは全然違う。そして、わたしには彼らに対しもうひとつのすごーく良い器があることに気が付いた。

寮母的器。


 寮母的器。四文字熟語的。寮母。きっとこのポジションの器なら私のそれは10号の土鍋なみにでかい。野球部の寮の食堂で毎食毎食何十人分もつくるあの寮母スタンス。個人の野球技術なんて1ミリも気にしていなくて、大会の試合結果は勝敗くらいしか知らず、ただただ気にかけるのはヤツらが元気で飯を食うかどうかのみ。おかわりは?え?いらない?まだ2膳しか食べてないじゃないのあーた!おばちゃんな、カントクに三膳食わせてほしい言われとるんよ。はい、食べる!まだトンカツあるで?ほら、明日は試合やろ、トンカツ食べて勝つ!な? おばちゃんのトンカツまちがいないやろ?な!!!!!!(愛愛愛愛飯愛愛愛飯愛愛飯愛

 部屋でごろごろ寛ぐ彼らを見て、それでいいじゃないかと思った。私はむすこの母で、彼らにとってはチームメイトの母さんで。最近は夕飯まで食べていく友達はめったにいないけど、いつかうちに泊りに来たらカツカレー大盛りを出してあげようか。
 
 そんなことをつらつらと考えたら、これまでの苦しさが少しだけ緩和された。器はぶっ壊さないと新しくならないから、野球少年の母としての器の大きなはそう簡単には変わらないし、きっと今後も大会は見に行けないかもしれない。それでも、私は「母」というこのポジションなら、どんぶり並みの大きな器を確信できる。それでいい。人間、なんでもうまいことやろうなんてきっと無理なんだから。

 それでいいそれでいい。鼻歌まじりにトイレへ行こうとして、玄関の三和土の床の様子が目に入り、思わず二度見した。

きっちり並んだ靴。

 キミらはきっといい子に違いない。そしていい指導者に教わっているいいチームに違いない。わたしの器はしょーもなく小さいから試合は見に行けないかもだけど、来年の夏に引退するその日まで、心から応援しています。




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