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仙の道 11

第五章・流(2)


礼司が飯場での生活に慣れるのには、それ程長い時間は掛からなかった。
この飯場には常に20人程が暮らしている。敷地には2棟の木造の寮舎が建っている。大きい方の寮舎の二階には、板の間の簡素で小さな個室が10室ほどあり、階下は大きな調理場と食堂となっている。この寮舎に入っているのは、各土木現場の仕事ごとに何処からともなくやってくるいわゆる短期滞在者で、長くても2ヶ月ほど、短ければ1週間ほどで入れ替わってしまう作業員たちだ。
一方小さい方の寮舎には6畳から8畳ほどの広さの畳敷きの大部屋が二階に3部屋用意されている。一階には大きな浴室と半分物置代わりの休憩室。社長の雄次夫婦をはじめ、荒木、戸枝、礼司等様々な事情で長くここに滞在しなければならない者はこちらで暮らす。雄次を中心としたいわゆる大家族生活だ。

朝は早い。食堂での朝食は6時半からなので、寮に住む人々は概ね6時までには起床する。
布団を片づけ、洗面を済ませてひと息つく頃には、個室寮一階の食堂には温かい朝食が用意されている。ここの炊事場を仕切るのは『スミさん』こと雄次の妻の澄江すみえだ。近所の農家からやってくる初老の女性の手を借りて全員の食事を賄う。少し太めだが大柄で目鼻立ちのはっきりした澄江は、快活で裏表を持たない明朗な女性である。

「おはようございます」
「お早う!礼司くん、今日は現場でしょ?」
「はい。イサオさんと一緒です」
「じゃ、しっかり食べてかなきゃ駄目よ。大体そんなヒョロヒョロしたモヤシみたいな身体じゃもたないわよ。うんと食べて、うんと働いて、もっとこうがっしりしなきゃ」
「あ、はい…」
「もっと大きい声で返事しなさい!朝っぱらから景気の悪い挨拶しないでよ。ほらっ、手の空いてる人はとっとと配膳手伝うっ!」

飯場の生活で社長や澄江からうるさく言われるのは、日々の挨拶と声掛け、さらに共同生活での助け合いである。所詮行きずりの関係でしかないこの特殊な飯場の人々が、危険と隣り合わせの肉体労働の現場で円滑なフォーメーションを築く為には、何よりも気心を通わせることが大切だからだ。
個室を使用している短期滞在者たちも、プライベートな時間を部屋に引き篭って過ごすことは決して許されない。「あんた、無口だか変人だか何だか知らないけど、ここに居る間は下に降りてきて皆とちゃんと付合いなさいよ」と、叱咤されてしまう。

また、ここでの生活には絶対に守らなければならないルールがある。飯場に滞在する人々、飯場で知り合った人々の過去を詮索してはいけないということだ。

荒木や戸枝、勿論礼司もそうだが、ここに滞在する者は、少なからず世間から身を隠さなければならない事情を抱えているからだ。現場ごとに雇い入れている個室寮の短期労働者の中にも、家族や故郷や社会から逃避しなければならない事情を抱えている者も決して珍しくはない。労働従事者としての登録も偽名で行なうものが多い。
実際に弁護士の荒木洋一郎は岩本洋司、戸枝勲男は山本勲夫、春田礼司は山田令次として登録されている。受注した外部の現場に赴いた時には、本名で呼び合うことが命取りになり兼ねないからだ。必然的にそれぞれの名字には殆ど意味がないので、飯場の中でも日頃から名字で呼び合う習慣は排除されてしまっている。
荒木は『先生』または『ヨウさん』、戸枝は『イサオ』『イサさん』、礼司も『レイジくん』『レイちゃん』と、ファーストネームで呼ばれる。過去も名字も持たないということは、守るべきアイデンティティーが何もないということだ。

医者、弁護士、起業家、学者、作家、サラリーマン、技術者、職人、はたまた学生ややくざ者であっても、ここで与えられる肩書きは唯一つ、皆『労務者』でしかない。むろんことさら自分の過去を主張する者など誰もいない。身一つ、あるがままの個性だけで、ここでの生活を送るのだ。そういった飯場の人々は何故か皆仲間意識が強く、思いやりのある親切な人物が多かった。

朝食が終わると、その日仕事がある者は用意された弁当を持ち、現場ごと車に乗り分けて仕事に向う。仕事の内容は土木工事の下働き作業である。土砂や土木資材の運搬、整地、道路工事の際には車両の交通整理も行なう。
肉体的には決して楽ではないが、どの仕事もさほど難しくはないので、短い期間で身体も慣れてくる。当初は慣れない大所帯生活や肉体労働に戸惑っていた礼司も、次第にここの暮らしが好きになってきた。日々現場に入れば、自分の役割ははっきりしている。飯場での生活は単調だが穏やかだ。母や姉の様子もそれぞれ落ち着いていると報告されていたし、経済的な不安もない。
考えてみればここに辿り着くまでの1年、礼司はこれほど穏やかな日々を過ごしたことはなかった。勿論自分の特殊な能力を発揮しなければならない局面は皆無で、平和な日々を楽しんだ。月日は瞬く間に過ぎ、季節は既に晩秋を迎えていた。


備品のグラブとボールを持って、礼司は外に出た。透き通った青空の向こうにそびえる山々から吹き下ろす風は、これからやってくる冬の序章を伝えるように微かに頬を刺激した。

「イサオさーん!先生!ねえ、キャッチボール付きあってよ」敷地の奥の廃材に2人並んで腰掛けていた戸枝と荒木を見付けて、礼司は近付いて行った。
「おう、礼司くん…悪いな、ちょっと今、そういう気分じゃねえんだ…」振り向いた戸枝は深刻そうな表情を浮かべていた。
「何ですか?何かあったの?」
「ああ…ちょっとな…ほら、これ…」と、戸枝は折り畳んだ新聞を差し示した。そこには、都内で起きた轢き逃げ事件の小さな記事が記載されていた。死亡した被害者は週刊誌の記者で、事件後警察に出頭した轢き逃げ犯は、成和会系暴力団組員と記されていた。両者とも礼司には覚えのない人物だった。

「これが…何ですか?」
「この轢かれて死んだ大戸って記者、先生の知り合いなんだよ。俺も会ったことがあるんだ」
「え?じゃ、成和会の組員が犯人ってことは…」
「ああ…ちょっとまずい感じなんだよ…」
「お父さんの事件と関係があるってことですか?」
「おおありだ…」荒木が深刻そうに呟いた。

1年前、成和会から命を狙われ、姿をくらました荒木は、事件の背景に国土交通省の幹部事務官と政務を担当する大物政治家の政治団体が深く関与している証拠となる全ての資料をこの飯場に持ち込んでいた。その後加熱する報道合戦を受けて、検察特捜部が調査を進めていたが、確たる証拠を見出せぬまま事件解明は遅々として進まず、マスコミの報道や国会での野党の追及も沈静化しようとしていた。


話は礼司と戸枝がこの飯場に来る2ヶ月ほど前に遡る。
荒木は暫く行動を控えていたが、ほとぼりが冷める頃合いを見て、密かに以前から知り合いだった大戸という雑誌記者と連絡を取り始めていたのだ。大戸は、刑事事件を専門に扱う荒木にとって、以前から信頼できる気心の知れた唯一の記者だった。事件のその後の進展を知る為に新聞や雑誌に目を通すことを日常としていた荒木だったが、ある日週刊誌に掲載されたこの事件の特集記事の最後に小さく記載されていた彼の名前を見付けた。大戸が荒木の失踪を受けて、この事件の解明に着手したことは明らかだった。

荒木は大戸と連絡を取る為、戸枝に協力を依頼した。大戸への連絡は慎重に行われた。事件の担当記者であるということは、その背景をなす様々な組織から目を付けられている可能性が充分にあるからだ。
荒木はまず、大戸に向けて敢えて自筆で手紙を書いた。自分の名前は伏せ、無事に身を隠していること、大戸の記事を読んだこと、そして是非連絡を取りたいことのみを簡略に記した。大戸とは古くから手紙のやり取りをしていたので、筆跡から差出人が荒木であることを察してくれることを願った。そしてそれを戸枝に託した。
戸枝は自分の連絡先を同封し、郵便を介さず大戸の自宅のポストに投函した。果たして数日後、戸枝宛に返信が届いた。中の便箋にはこう書かれていた。

『戸枝様、御丁寧にお便り頂き、有り難うございます。大変御無沙汰しております。久々のお手紙懐かしい気持ちで読ませて頂きました。お元気にお過ごしとのこと、何よりです。お手紙にも書かれていらっしゃいましたが、音信が途絶えがちな旧友の近況など、是非一度お会いして、いろいろとお話を伺いたく思います。ただ、御心配頂いている通り、何かと調子を崩し、多少不自由な日々を過ごしております。どうぞ御容赦下さい。また改めてお会いできる機会を御相談させて頂きます。そういえば、御存知かと思いますが、先日西村君と会った折、戸枝様と連絡を取りたがっていました。電話番号を記しておきますので、お時間のある時にでも是非御連絡をしてあげて下さい。きっと喜ぶと思います……』

その文面から、大戸の周囲には目に見えない厳しい監視の目が存在することが読み取れた。戸枝は早速指定のあった西村という人物に連絡を取ってみた。西村はフリーランスのライターで、大戸とは親密な仕事仲間であった。戸枝が大戸と面会した場所は、西村が仕事の為世田谷の住宅街に借りている小さなアパートの一室だった。

ブザーを鳴らすと、ドアの向こうから男の声が聞こえた。
「どちら様ですか?」
「戸枝と申しますが…」ドアが解錠され開くと、短髪でがっしりとした体つきの屈強そうな大男が立っていた。
「西村さん…ですか?」
「いえ、大戸です。初めまして。さ、中に入って下さい」チェックのジャケットにネクタイ姿の大戸は、見たところ自分と同世代に見えた。

「初めまして、戸枝です。失礼します。あの…西村さんは、いらっしゃらないんですか?」戸枝は大戸に勧められるまま、デスク脇の小さな打ち合わせテーブルに置かれた椅子に腰掛けた。
「彼はこのこととは一切関係ないんで、場所だけ提供して貰ったんです。すいませんね戸枝さん、わざわざ御足労頂きまして、私の周辺ではここが一番安全だと思いますんで…ちょっと、失礼します」大戸はそう言うと大型のトランシーバーのような機械を取り出し、手慣れた様子で操作をし始めた。暫くすると安心した表情で機械の電源を落とし、話し始めた。

「これ、盗聴器の探知器なんです。すいませんねえ…万が一のこともあるんで、気を悪くしないで下さいね」
「そんなに厳しいんですか…」
「まあ、いつもって言えばいつものことなんですけどね。この間の特集記事以降は特に厳しいですねえ。社内の電話や手持ちの携帯も危ないんですよ。どうも、最近は時々尾行も付いてるみたいだし、何ていっても相手が相手ですし、殺人まで絡んでますからね、向こうも必死なんでしょう。うちの編集長なんか、いつ上層部から規制が掛かるか戦々恐々ですよ。それにしても、荒木さんが無事だったなんて、本当にびっくりしたんですよ。いやしかし、よかったなあ…てっきりもう駄目かと思ってたから…それで、戸枝さんは荒木さんとはどういう御関係なんですか?」

戸枝は自分の身分と、荒木とのこれまでの関わり、さらに荒木が身を隠すに至った経緯について語った。
「なるほど…成和会か…荒木さんも随分厄介な事件と関わっちゃったもんだよなあ…いや、うちもあの事件は当初から追ってましたからね。大筋は分かっているんですが、何しろ実証がないんで…実は荒木さん、居なくなる少し前にね、たまには飲もうよって連絡があって、で、かなり重要な証拠を掴んだって話を伺っていたんですよ。検察や裁判所の方にもね、根回しはしてるって、裁判が始まったら必ず大ごとになるはずだからスクープにして欲しいって。世論を煽ってくれないかって言ってたんですよ。抱えてる裁判に有利に働く筈だからって…その矢先に失踪でしょ?こりゃいよいよやばいかなって思って、すぐに荒木さんの事務所の方に連絡取ったんですけど、関係書類は何も残っていないってことで…事務所の方もあっという間に圧力がかかって解散になっちゃったし…で、こつこつ僕なりに調べて、ようやくあの記事まで漕ぎ着けたんですよ」
「証拠書類は先生がまだ持ってますよ」
「え?そうなんですか?僕はもうてっきり、誰かに持ち去られたのかと…」
「うちの組が先生を助けた時に偶然資料は全部鞄に持ってらっしゃったんですよ。でも…先生も身動きが取れないし…俺たちにしたって、先生の命を守るんで精一杯ですからね」
「まあ、ともかく無事で何よりですよ。で、荒木さんはこれからどうするって…おっしゃってるんですか?」
「今日、証拠書類の重要な部分を預かって来ています。コピーですけど…大戸さんに見せれば分かると、先生おっしゃってました」戸枝は鞄の中から封筒を手渡した。大戸は封筒の中に収められていた2枚の書類を取り出し目を通すと、見る見る表情を強ばらせた。

「これ…一体…荒木さん、どこで手に入れられたんですか?」
「私は、何も伺ってませんし、詳しいことは知りません。とにかくこれを渡すように言われただけですんで…」
「いや、これ…大変ですよ…入札価格の事前漏えいです…しかも、送り主は副大臣の公設秘書ですし、担当事務官の名前まで書かれていますよ…もう一枚は、献金の事前指示書です。時期も明記されています」
「そうですか…でも、私は本当に詳しいことは分かりませんので。ただ、これからどうやって大戸さんと連絡を取り合ったらいいかを相談してきて欲しいということでした」
「そうか…これじゃ命も狙われる筈だな…荒木さん、他には何か言ってませんでした?」
「あ、そうそう、この書類の存在を知ってるのは、あの時の裁判を担当していた地検と裁判官だけの筈だから、その辺もよく注意するよう伝えてくれって言ってました」
「なるほど…秘密裏に進めて、一気に全容を公開しないと、潰されるってことだな…分かりました。ところで、荒木さんは今どちらにいらっしゃるんですか?」
「それは、言えません。我々の世界ではこういうことはよくありますんで、大丈夫ですよ。安全な場所ですから。」
「それじゃあ、そこからは出ないようにして貰った方がいいですね。じゃ、これからの手筈を考えましょう…」


こうして、大戸と荒木は連絡を取り始めるようになった。戸枝は闇ルートに出回っている契約者不詳のプリペイド式携帯電話を2台入手し、1つを荒木に、もう1つを西村に手渡した。大戸は西村のアパートからのみ荒木と連絡を取ることとした。書面でのやりとりは戸枝と西村を仲介して行われた。また、大戸はかつて荒木が調査した経緯に沿って、さらに独自に緻密な裏付け調査を行なった。記事発表後の隠ぺい工作を不可能にする為だった。

戸枝と礼司が身を隠した後も引き続き大戸の取材作業は続いていた。そして、半年以上を掛けて記事公表の時期は次第に近付いていた。大戸は社内でも秘密裏に単独で作業を進めていたが、記事の内容がほぼ固まり、いよいよ編集長に原稿を見せ、発表の時期を相談しようというところまできていたのだ。


「その矢先ってことですか?」
「そういうことなんだ…ここまであんなに慎重に進めてきたのに…まさかこんなことになるなんて…俺が大戸さんを殺したようなもんだよ…」荒木は心底参っている様子だった。
「証拠書類はどうしたんですか?」
「原本は先生がまだ持ってる。写しも西村さんのところにあって無事みたいだ」戸枝はすぐに西村と連絡を取った様子だった。
「その西村さんって人も危ないんじゃないですか?」
「それもそうだけど、どこで情報が漏れたかってことが問題だな…」
「その編集長ってことじゃないんですか?」
「いや、原稿はまだ編集長のところにいく前だったんだよ。漏れたとするとあの携帯以外には考えられない…」
「そんなこと…できるんですか?」
「まあ、相手は思った以上に強敵だってことだな。もしそうなると…ここももう安全じゃないってことだ」
「でも、この場所は大戸さんにも知らせてなかったんでしょ?」
「そりゃそうだけど、携帯だからな。その気になりゃ中継器の場所は探知できるだろう…この辺は建物も少ないからなあ…どうせ成和会がらみだろ?俺たちも危ねえってことだよ」
「そうか…で、どうするんですか?これから…」
「今のところはどうしようもないな…暫く様子見るしかないだろう。下手に動くのも危ないだろうし…」
「社長には大体のことは話してるから、いよいよやばくなったら、浅川の叔父貴に相談してもらうよ」
「じゃ、ここでくよくよしてても仕様がないじゃないですか。キャッチボールしましょうよ、キャッチボール。ね、お天気もいいし。少し身体動かしゃ、いい考えも浮かんできますよ」礼司は脇に抱えていた2つのグラブとボールを手に持って2人に見せた。
「礼司くん…はは…お前、本当にいい度胸してるなあ…」戸枝の顔に笑みが戻った。
「よしっ!じゃ、やるか!キャッチボール!おい、礼司くん、俺にもグラブ貸してくれ!」荒木が勢い良く立ち上がった。
「なんだよ、じゃ俺もやろう。もう1個グラブ取ってくるわ」そう言って戸枝が寮舎に走ってゆく。

「よーし、いいぞお!」少し離れた荒木が振り返ってグラブを構えた。礼司はそのグラブめがけてボールを投げる…
やがて、広い青空の下にキャッチボールの音と3人の掛け声と笑い声が響き始めた…

第12話につづく…

第1話から読む...


連載小説『仙の道』では表紙イラストを、毎回一点イラストレーターであり絵本作家のカワツナツコさんに描き下ろして頂いています。

カワツナツコさんの作品・Profileは…
https://www.natsukokawatsu.com





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