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自分もそうなるかもしれないという怖さはどこから?東電OL殺人事件を知って感じたこと

事件に対する得も言われぬ当事者意識

つい先日までこの事件を知らなかった。

偶然、聞いていたラジオで話題にあがり、気になってすぐに調べてみた。


なんとなく開いてみた関連記事に、どんどんと吸い込まれるように読み進めているうちに、涙が出てきた。
怖い、というかおぞましいというか、表現するのが難しい感情。でもそれは、事件のむごさに対してではなく、どこか自分の内面をえぐられるような感覚から湧いてきたものだった。

この記事にもある「彼女は、私かもしれない」という感覚。わたしが聞いたラジオでも同じようなことを言っていた。これってなんだろう。

被害者となった女性は、事件を説明する記述の中で「エリート」と表現されていることが多い。高学歴、東電という有名企業への就職。さらにそこで女性初の総合職入社。
今から40年ほど前の社会、まだ30年も生きていない私からすると、その時代の女性の働く環境は想像することしかできない。

記事にもある通り、25歳を過ぎた女性が売れ残ったクリスマスケーキと呼ばれる旧態依然とした世の中で、社会での活躍を望まれ、優秀な人材は一般職の女性が多い環境のなかでマイノリティとして奮起しなければならない。

きっと今よりずっと閉ざされていて窮屈で、そんななか変わろうとする社会の期待と妬み、一方で変わらない社会の圧力に翻弄され、どれほど居心地が悪かったことだろう。

時代が過ぎ、社会は変わってきたはず。それでもなお、共感できるところが多いのは、じつは社会が変わっていないということなのだろうか。

総合職の女性というマイノリティ

わたしが新卒で入社した会社も、その業界の大手企業だった。同期はたしか600人ほどいたなかで、エリア職と呼ばれる転勤を伴わない人が400人。
その年からエリア職で男性の採用が始まり、3人が該当した以外はほぼ女性。
そして残りの200人はいわゆる総合職で、そのうち女性は20人弱。
会社全体を見ると女性が圧倒的に多い職場であるが、総合職の女性はごくわずか。わたしはそのマイノリティグループに属していた。

会社に入るなり、「総合職の女性は立場がないよ」と先輩男性社員から言われた。その言葉は事実で、総合職の男性とはライバル関係で競わなければならず、エリア職の女性からは、出世が早く、給料も高く設定されているわたしたちには厳しい目が向けられていた。

わたしが配属された課の上司に、女性の課長がいた。その人はエリア職で入社したが、まさに社会の流れに乗ってマイノリティながら奮起した一人。ライフステージの変化を経ながらも課長職にたどり着いた。
その人がどんな苦労をしたのか、わたしにはわからないが、きっとたくさんの困難を乗り越えてきたのだろう。その経験からなのか、総合職で入社したわたしへの当たりは周りより強かった。
飲み会の場では「わたしより役職が下(課長補佐)でも、総合職の彼らはわたし(エリア職)より高い給料をもらっている」などという不満をぶつけられたり、上司数名と業務内容の進捗の共有をしているときも、「総合職なんだから甘やかしてはいけない」といつも厳しい言葉をかけられた。

自分が経験してきた苦労を歩んでいくであろうわたしに、喝を入れてくれていたんだろうか。それとも、自分よりも恵まれた環境のわたしが憎かったんだろうか。苦労も知らないで生きているように見えるその姿に、自分の経験を知らしめたかったのかもしれない。
「この時代に、まさか同性からも妬まれるのか。」そんな風に思ってしまった。

社会に押し付けられる”普通”

わたしは新卒で入社した会社を辞めた。それは周囲から、「信じられない」と言われる選択だった。
安定した収入、立場、大手企業の名声。そんなものを捨てて、どういうつもりだ。普通はそんなことしない。大体の人はそんなことをわたしに言った。
わたしにとってそれらが、幸せの条件だと思えなかった。それだけなのに。

そして今度は、結婚について言われることが増えた。「いい人いないの?」「結婚願望ないの?」「誰か紹介してもらったら」「早いほうがいいよ」といった具合に。

こうして日々押し付けられる”普通”。
生きていれば、次から次へとさまざまな”普通”が振りかざされるのだろう。

わたしたちを捉えて離さないものはもう一つ、名声。
学歴、所属、肩書き、両親の仕事、子どもの進学先、パートナーの職業、住んでいる場所、持ち物などなど、挙げればキリがない。
名声を自分の自信に変えて、モチベーションにできる人もいるのかもしれない。けれど、他人と接するときの色眼鏡にしてしまうと、凶器にしかならない。
他人の名声を羨んで、自己肯定感を失ったり、他人と自分を比べる材料にして、他人を妬んだり蔑んだり。
名声が、他人をラベリングする道具になってしまうと、もうもはやそれは凶器だと思う。

こういった社会からの重圧が、わたしにとっては生きづらさの要因で、そんなものに捉われたくないと思っていても、完全に逃れることは難しい。

それでも、自分に誇りを持って生きるには

どうしたらいいんだろう。
この社会の生きづらさを、どうにかしたい。次の世代には引き継ぎたくない。そう思っているものの、方法がわからない。
この行き場のない閉塞感が、東大OL殺人事件に対して感じた、自分の内面をえぐられるような感覚なのだろうか。

いま、わたしのなかに答えはない。社会の生きづらさを少しでもなくしたいという思いが募った、というだけ。繰り返したくない。

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