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今、なぜ『失われた時を求めて』? ――名作だけれど読み始められないわたしたちのために(3)

 マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』は、20世紀を代表する世界的な傑作とされていますが、書店でその長さを見てひるんでしまう人も多い作品です。KUNILABOでは、そのプルーストの生誕150周年を迎えた2021年の4月期講座で、中野知律先生を講師にお迎えして、「プルースト『失われた時を求めて』を読む」を開講いたしました。その講座開講に先立ち、KUNILABOは「2021年4月期KUNILABO春期特別イベント」を2021年3月28日(日)に開催しまして、講師の中野先生と、この長大な作品の完訳でも知られる鈴木道彦先生をお迎えして、オンライン対談形式でプルースト作品について語っていただきました。
 お二人が作品と出会い、惹かれていった過程、プルーストの文体や、その語りの特徴、そして現代において読むことの意義——これまで読んだことがない人も、またすでに読んだことがある人も、お二人の対談から浮かび上がる『失われた時を求めて』の豊かな世界の一端に触れてみませんか?
 本記事では、この対談記録を3回に分けてお届けいたします。

小説の普遍性のために名前を消す

――ありがとうございました。おそらく今、この物語の核心に迫るようなお話を頂いているような気がするのですが。今の中野先生のお話を受けて鈴木先生にコメントを頂きたいと思います。

鈴木:あんまりフランス語もできない日本の学生がね、原稿なぞを読んで、そして「マルセル」というのは消される方向にあったなんていうことを言ったもんだから、フランスのプルーストの錚々たる研究家たちは、「何をこんな生意気なことを言う」と思ったと思うんですね。でもこの「マルセル」という名前は、プルーストは消そうとした。これはもう明らかだったと思うのです。非常に回りくどい言い方をして、〔作者と同じ〕ファーストネームで呼んだ〔としたら〕とかね、何とか言って、名前を書きゃあいいところを、避けて通っているわけです。そういうことなんですが、名前のない主人公というのは別にプルーストだけじゃないんですね。例えば、バルビュスの『地獄』という覗き小説がありますが、あれは名前があったでしょうか。それから、このプルーストの前後に名前のない小説を書いた人がちらほら見かけられます。だから、名前がないのはプルーストだけじゃないのだけども、プルーストの場合には、この名前のない主人公を、しかも一人称主人公がずっと作品を引っ張る形で描いたんですね。そして、その名前のない主人公の経験したことが自分の小説の主題になっている。そして、それがいわば読者の主体にもなってほしいと。つまり自分の小説を読む読者は自分自身を読んでいるんだ、と一番最後に言ってるわけですから。そういういわば自分の書いた小説の普遍性のために名前を消していった。非常に単純化して言うとそういうことだと思うんですね。それが何十年もプルーストを研究していったフランスの錚々たる研究家の目からも落ちていたのだと思います。私のほうではそういう風に考えています。

――どうもありがとうございました。「私」という者の名前を消していくことによって、しかし非常に独自なマルセル・プルーストという署名を受けた小説が世に出ることになり今に至るという。今、ちょうどお話を頂き始めてから一時間ほどたっております。そうした非常に真摯な作者の態度が今の「マルセル」を消すか残すか—―何回揺れ動くのだという、そのなかでも見えると思うのですけれども、このあとは、最終的に今日プルーストを読む意味について、というところに移っていきたいと思います。今、チャット欄に河野真太郎さんからコメントが入っていますので、それも受けながら、ということでもいいかもしれません。

河野:「中野先生が提示された模倣についての書簡が非常に面白かったのですが、翻訳はあるのでしょうか。」 あそこに示されたフィクション感と、いわゆる今現在ポスト・プルーストと言われる現代との関係はどのようなものでしょうか。現代的に読むことの意義は大きいなという直感があります。つまり現実はどうやって出来上がっているのかを深く問う文学としてプルーストは在るのか。それに関連してプルーストに影響された現代作家や翻案作品はありますでしょうか。

――そうしたことも含めまして、ということで、すべてについてお答え頂くことは必要ないですけれども、そんな質問もあるということを念頭に置いて頂きながら、プルーストの今日的な意味というところに、ここからはお二方に伺っていきたいと思います。鈴木先生、いかがでしょうか。

プルーストが与えた影響

鈴木:プルーストは、フランスに限らず、プルースト以後の小説に非常に大きな影響を与えましたね。例えば、日本では堀辰雄がいち早くプルーストを認めて、プルーストについてのいい文章を書いています。そして、堀辰雄だけじゃなくて、戦後たいへん活躍したマチネ・ポエティックっていうグループがありますね。ご存知でしょうか。中村真一郎とか福永武彦とか加藤周一とか、そういう人達の作ったグループですが、このグループの人なんかは非常にみんなプルーストが好きでしたね。中村真一郎の書いた戦後に出た最初の小説『死の影の下に』という小説ですが、その出だしのところなんかを読んでみると、プルーストの夜眠れるか眠れないかというような出だしと同じように、壁のところを歩いていく人の意識が描かれて、もうとにかく影響は歴然たるものがありました。それだけの影響を与えた人だということが言えると思います。おそらく、プルーストについて総否定をする人はいないんじゃないでしょうか。一時サルトルが戦後すぐに『レ・タン・モデルヌ』という雑誌を立ち上げた時にですね、激しくプルーストを批判した文章を書いたように言われましたが、実際にサルトルが日本に来た時に会って聞いてみたらば、彼は「プルーストは私の若い時の大作家で、もうとにかく彼がいなくては小説が成り立たなかった」と絶賛していました。それから、ボーヴォワールも。彼女はプルーストとルソーが好きなんですね。そういった戦後の作家たちの憧れの的であったし、同じ時代の小説家もみんなプルーストが好きでした。例えば五月革命の革命派たちもね、まるで革命派とプルーストとは違うようだけど、そういう連中で、いや、実は僕はプルーストが大好きなんだよという人もおりました。まあそんな風に現在ではプルーストの大作家である面はもうみんなに認められていると思います。

――ありがとうございます。去年から今年にかけてカミュの『ペスト』がもう一回このパンデミック禍で読まれているのですけど、今の世の中の状態を考えた時にプルーストはどういう風に読める可能性がありますでしょう。

鈴木:色んな風に読めると思いますが、もし具体的な社会現象みたいなことを考えるんだったらば、たとえばプルーストの中に出てくるユダヤ人。金持ちのほうではスワンがいるし、金が無いほうではブロックがいますが、そういうユダヤ人たちの描き方ですね。これはたとえば日本にいる在日の外国人のことを考えれば、常にその関係が日本人にとっても普遍的なものだとわかるわけです。たとえばそういうことがあります。在日の人でプルーストが好きな人もいっぱいいますね。そういう研究をしている人もいます。

フランスでの教育、プルーストの胆力

――どうもありがとうございます。では中野先生、よろしくお願いします。

中野:なるべく今おっしゃった大事なことと重ならない小さなことを。現在フランスで例えばどのようにプルーストが読まれているかということについても少し触れてみようかと思うのですけれど、プルーストは中等教育で、教師の選び方にもよりますけれど、バカロレアの課題になったりもしますので、やはりプルーストを読むための参考書というのがたくさん出ているんですね。たとえば、これは『スワン家の方へ』なんですけど、さすがにどこが大事か先に教えて! みたいな感じがありありとわかる矢印つきのテクストで、「ここのところは大事」とばかり、大事なところには線が引いてあるのです。冒頭は大事なので相当線が引いてあるんですけど、あとは所々しかなくて、良かったら読んで、みたいな箇所もありますね。抄訳ならぬ抄読については、先ほどの「原稿審査報告」では筋のわからなさということをしきりに言ってましたけれど、やはり小説ではありますし、長編小説で社会の変化を描いているという意味ではプルーストに筋がないわけではない。ただし、それがわかりにくい形であった。出だしのところは特に、ということでしたね。それはたぶん自己に沈潜するというところから始めたためかと思いますけれども。そうした読みの工夫などもあって、現代のフランスではプルーストの学習が成り立っていると言えるかもしれません。 
 今日的な意義というのは、私などはあまりきちっと言える立場にはないのですけど、先ほど私自身にとってのプルーストの魅力として挙げた「知的誠実さ」をプルーストが感じるようになったいきさつは、やっぱりドレフュス事件そして第一次世界大戦に向き合った経験だったわけです。ドレフュス事件は世論の事件であるとも言われるように、ありとあらゆることが言語化されて、そしてそこに様々な偏見がまとわりついて、それが新聞それぞれの主張となって出てくる、そこに人間集団がくっついて衝突が起きていくのをプルーストは見てきた。また、第一次世界大戦においては、様々なモットーが無責任に掲げられ、これまでの自分の意見をひっくり返すような論説を繰り出す人間もたくさんいたのをプルーストは小説の中にも描きこんでいます。そうした状況下で自分自身はどのように作家としての立場を守りながら言葉における誠実さを貫くのか、言葉の発信者としての誠実さを貫くのかということにものすごく気を配った作家だったろうと思っています。プルーストは軟弱そうな作家と思われているかもしれませんが、実は戦う人間、けっこう胆力のある作家ではないかと。そんな姿勢から学ぶことはできるのかな、と個人的には思っています。

――どうもありがとうございます。ユダヤ人の問題、あるいはドレフュス事件の問題、昨今のSNS上で一方的に140文字で叩く、そこで何かが炎上したり二次被害が起きたりということを見ていますと、フランスで起きたドレフュス事件、あるいはユダヤ人の問題についてどういう言説が流布するのか、そのなかで言葉を研ぎ澄ましてきたプルーストは、今読むと色々教わるところがあるのだろうと思います。それでは、ちょっと時間が押し気味なのですけれども、ここから質疑応答に移ります。今感想などみなさんチャット欄に書いてくださっているところです。質問を拾います。S.Sさんという方から頂いています。「鈴木先生の翻訳を楽しんでいる人間としてこのような機会を得て嬉しく感じております。翻訳について、『失われた時を求めて』 にも数種類が出版されていますが、同じ作品に複数の翻訳があることについて、どのような価値や意義があるとお考えでしょうか。

翻訳の意義

鈴木:私はね、私以前の翻訳について、プルーストは明快なのに、訳はなんかあんまり明快でないとか、そういう批判を持っていました。前にそこそここれでいいだろうという翻訳があるとしたらば、その後に十年もかけてプルーストを訳そうなんて気にはならないけど、でもやはり自分のプルーストで分かりやすいプルーストを作りたい。そしてみんなに読んでもらいたい。そういう気持ちがあったので翻訳をやりました。だから、多分、私の後の人も鈴木の翻訳では分かりにくいと思って、もっと分かりやすい翻訳をと思ってやってらっしゃるんだろうと思います。だからきっといい翻訳ができるんだろうと思います。

――私がプルーストですごいと思うのは、個人で、一人で翻訳なさるのはすごいなって思うんですが、それが複数種類あるということです。どうしてそんなにもみなさん頑張ることができるのか。他に質問はありますか。では、Hさんどうぞ。

参加者からの質問

Hさん:前からこのプルーストのを読みたかったんだけど、読めなかったんですけどね。今回、思い切って全巻を買って読んだら、あっ面白いっていうほうが先です。たとえば、小説で言うと、ひとつの木を表すとしたら、その木が、プルーストはどんどん広がっていくような感じで、蔦に絡まった草がどんどん伸びていくようなイメージがあって、ひとつの物語として感じ取るんじゃなくって、どんどん増えていくっていうそういうイメージがあって面白かったんです。それからもうひとつは、20世紀になった時にここには路面電車だとか電話だとかそういう新しい鉄道なんかが出てきたように、現在はオンラインだとか携帯を使っているんだけど、何かドローンでどんどんプルーストの眼が進んでいく時、それを楽しむことが出来た意味では、まだ実は二巻までしか読んでないんですけど、この後楽しみです。それからもうひとつは、ここのところに高遠弘美先生の名前がちょっと出てきて、高遠先生の訳もすごく楽しみです。そういう感想です。

――どうもありがとうございます。今、初めて、プルースト全巻を揃えられて徐々に読んでいらっしゃるというお話を伺いましたが、その後乗り越えていこうとすると「ゲルマントの壁」があるらしいので、今回は私も頑張ろうと思います。それでは次の方どうぞ。

Sさん:私は第12巻でもう人生が変わってしまったという経験を持っているんですけれども、鈴木先生、それから中野先生はこの長い作品のなかで、ここでもうものすごく変わってしまったというようなところがもしおありでしたら教えて頂きたいと思います。

――これはいかがでしょうか、鈴木先生。

鈴木:人生が変わったということは、第12巻っていうのは『見出された時』のことを言ってらっしゃるのですね。

Sさん:『見出された時』のことで、要するにフェルメールという名前で呼ばれたり、レンブラントという風な名前で呼ばれたりするけれども、もしそれを作家とか芸術家が表してくれなければ知らなくて終わっていた世界を、そういう芸術家のおかげで私たちはまるで初めてのように見ることが出来るっていう。それで、私は今まで何の芸術を知っていたんだろうっていう印象です。

鈴木:わかります。プルーストの作品全体がそうですけれども、人間が「私」というところから始まって、そしてその「私」っていうのは、自分の意識は捉えているような気がしているけども、他人の意識は捉えられないわけですね。だからある意味で非常に孤立しているんだけども、芸術作品に感動すると、そういう孤立した自分から引き出されて、その作品のいわば魂というか、そこで証明されている一番重要なものに自分が惹き付けられて、それと交流していく——これがプルーストの芸術の考え方ですよね。ヴァントゥイユの曲を聴いて非常に感動するとか。そういうのが重要な場面場面で出てきますから。だから孤立している自分が、芸術作品によって、たとえばプルーストという作品によって、自分から外のものに引き出されていく。そういう経験を僕も持っていますし、それはプルーストの作品の持つ最大の魅力のひとつだと思います。

――中野先生、何か付け加えられることありますか。

中野:私の場合は、プルースト自身が変わったかなと思う所が一番魅力的でもあったので、そういう意味では『囚われの女』でしょうかね。それまではユダヤの問題にせよ、同性愛の問題にせよ、社会的規範というものから弾き出されているような他者が、実は自らの内側にある、内なる他者に気が付くというところがじっくりと大事に描かれているように思うのですが、絶対的な外側にいる存在としての「他」を恋人として発見するという『囚われの女』の巻では、プルーストの書き方も少し変わったのじゃないかなと思ったりします。そこが私自身にとってとても魅力的というか新しい気持ちで読めるところでした。

鈴木:そうですね。あそこから後は語り手自身が主役になってアルベルチーヌと交流しますからね。それまではわりあいと観察者の立場で覗き見をしたりなんかしているけれども、あそこからは自分が出てくるからそういうことになるでしょうね。

――面白いですね。深く付き合ったときに本当に恋人こそが一番分からない他者になっていくという…。ありがとうございます。Y.Fさんからご質問を頂いております。プルースト以後の文学者がプルーストを絶賛したり影響を受けたのは、今日のご講義で先生方が指摘されたような文学的な面白さや視点の鋭さによるものと思われますか、というご質問です。

鈴木:私は、今日おしゃべりしたようなことを含めて、プルーストの魅力をみんなが色々な形で感じたんだと思いますね。だから日本にこれだけの多くの研究者がいて、そしてみんながプルーストを調べたり、解剖したり、批判したり、褒めたりしているんじゃないでしょうか。とにかく20世紀のフランス、そして世界を代表するようなたいへんな小説家だと思います。

――ありがとうございます。I.Sさんの質問です。プルースト、そしてベルクソン、ジャンケレヴィッチなど時間をテーマにした哲学者、文学者はみなユダヤ人ですが、プルーストの時間性――時間の性質ですね――はやはりユダヤ文化と強い結びつきを持っているのでしょうか。いかがでしょうか。

鈴木:私はもうとてもそんな難しいことには答えられませんけども、中野先生にお考えがあればどうぞ。

中野:いつも気になる大事なご指摘だと思うのですけど、ユダヤ性の問題なのか、あるいはある種同時代の時代性があるのか、色んな切り口がありそうに思いながら、なかなか真っ向からの論文が出にくかったってことはありますね。あるいは非常に厳密なモノグラフィーなど。大きな視角からの問いは、本当は非常に大事なことだと思うんですけれど。従ってお答えとしては、是非、今後の新たな研究から教えていただきたいという気持ちでおります。

――もしかすると、今日の聴衆のなかにベルクソン等にお詳しい方が混じってないかしら、と勝手に期待したりもするのですが、どなたかこれに関してコメントがおありでしたらコメント欄などにお願いいたします。いずれにせよ、プルーストが生きた時代の19世紀の終わりから20世紀は、目覚ましく技術が進んで、あるいは時間が標準時になったりするなど、その時間の考え方自体も非常に動いていた時代ですよね。中野さんがおっしゃったような事、その時代の問題というのもあるかもしれないし、ユダヤ文化とのつながりも私はわからないのですが、何かあるのかもしれないし、何もないのかもしれないのですが、ご存知の方がいらっしゃればとても歓迎です。

――それでは、お時間となりましたので、ここで締めさせて頂きたいと思います。今日は色々お話を頂きまして、みなさんに楽しい時間であったことを願っております。多くの方々においで頂きまして、本当にありがとうございました。また何か機会がありましたら、お目にかかれることを念じております。どうもありがとうございました。

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