見出し画像

カントをめぐる対談:カント政治哲学と国際秩序の〈未来〉(第3回)

上野大樹さんが講師を担う市民講座「みんなで読む哲学入門」で行われた、金 慧さん(千葉大学)と網谷壮介さん(獨協大学)をゲストに招いたオンライン対談の模様をお送りする「カントをめぐる対談」。
第1回はカントの「政治哲学」の意義について、第2回は『永遠平和』を読む上での史的・同時代的な文脈についてのお話でした(第1回の記事はこちら、第2回の記事はこちら)。
第3回となる今回は『永遠平和』のテクスト解釈についてのお話です。どうぞお楽しみください。

ご寄付のお願い

また、KUNILABOの運営主体である国立人文研究所は、現在のところメンバーの手弁当で運営されています。この活動を長く続けていくためにも、国立人文研究所とKUNILABOの趣旨にご賛同いただける方には、ぜひとも本ページ下部よりサポートいただけますと幸いです。
サポーターの皆様からの寄付は、KUNILABOの企画運営や各種活動に活かし、社会教育や地域文化コミュニティの活性化、人文学の発展に寄与していく所存です。

(3)『永遠平和』のテクスト解釈

上野: では、続いて『永遠平和』のテクストそれ自体のほうに徐々に入っていければと思います。

網谷: 『永遠平和』にはいくつか解釈上問題になるポイント、意義のある論争を呼びそうなポイントがあります。が、その前段階として、私の方から最近考えていることをお話したいと思います。
 それは、「『永遠平和のために』という本の全体の構成を、もっと真に受けたらどうか」ということです。この本は平和条約を模したものらしいということはすぐに分かります。「予備条項」があり、続けて「確定条項」が出てきます。誰だってこれを見ると、この本は平和条約のパロディなんだとわかります。ところが、たいていのカント研究者もこのことをちゃんと真に受けているようには見えないのです。
 まず指摘されるべきは、たいてい「補説」と訳されているZusatzについてです。これは「予備条項」と「確定条項」の後に出てくるものですが、翻訳に問題があります。ドイツ語の原語はZusatzですが、zu-は「追加」を意味する接頭辞です。要するに「付帯条項」あるいは「追加条項」と理解されるべきです。したがって『永遠平和』の全体の構成は、「予備条項」、「確定条項」、「付帯条項」、そして最後に「付録」という順になっています。
 こうした全体の構成を理解したうえで問わないといけないのは、「確定条項」に対して「予備条項」と「付帯条項」はどんな関係にあるのかということです。特に「付帯条項」は謎めいています。いきなり「永遠平和は自然が保証してくれる」みたいなことをカントは言い出すわけです。「予備条項」や「確定条項」に関しては「結構良いこと言うじゃん」と思ってくれる人も多いのですが、「付帯条項」を読んだ人は「なんとカントは馬鹿げたことを言っているのだ」となってしまう(笑)。

上野: はい、たしかに受講生の方からもそういった反応が複数ありました(笑)。

網谷: ええ。「自然が平和を保証してくれるなんて、なんと楽観的な人なのか」と呆れられてしまうわけです。このあたりをどう読むべきなのか、自説をお話したいと思います。
 まず「予備条項」についてです。予備条項というのは、なにもカントが勝手にそう呼んでいるというのではなくて、当時の国際慣習上存在したものです。どういうものかというと、和平条約の締結に先立って、条約締結が失敗または決裂しないように予め定めておく、非公式な条約なんですね。例えば、条約締結をいつどこでやるのか、誰が参加するのかといったことや、交渉の中で何を争点として協議するのかといったことは予め決めておかないと、交渉が失敗し、条約が締結できないということになりかねません。あるいは、例えばここで停戦しておきましょうとか、占領地から撤退してください、捕虜を解放してくださいといった、条約締結の前提になるようなことを、予備条項として外交官レベルで非公式に取り決めておくわけです。
 実際、色んな条約に予備条項はあるのですが、1742年のブレスラウ予備条約が国際法上有名なようです。これはプロイセンとオーストリアで結ばれたものです。対オーストリア戦争からプロイセンが離脱する、オーストリアはシュレジエン地方をプロイセンに割譲するということを予備条項で定めておいて、具体的な内容を「ベルリン条項」として確定させる。そういうプロセスがあったようです。
 こうした予備条約の性質、つまり、和平条約が失敗しないように予めその前提を定めておくということを念頭に、『永遠平和』を読むならどうでしょうか。『永遠平和』だけを読んでいては、「予備条項」と「確定条項」の関係について、「なんでこれが予備で、なんでこれが確定で」と全然わかんなくなります。「予備が6個くらいあって、確定が3つ出てきました、へー」という感じで終わってしまいます。それに対して、当時の国際慣習上の予備条項を念頭に置くなら、「予備条項」は「確定条項」の前提条件になっているという読み方もでてくるのではないかと思うのです。
 「予備条項」の内容は『永遠平和』だけで言われているものではなくて、関連する著作として挙げた『人倫の形而上学』のなかでも論じられています。国際法上の文脈に加えて、テクスト間の文脈を考えていけば、予備条項と確定条項の関係についても、もう少し理解が進むのではないでしょうか。

上野: なるほど、興味深いですね。これも、コンテクストを踏まえることでテクストの見え方が変わってくる好例ですね。

網谷: 今度は「付帯条項」、自然の保証の話です。「永遠平和を自然が保証するんだ」みたいなトンデモ話が出てくる。これはトンデモ話のように見えるのですが、トンデモではないよということをお話したいと思います。
 この問題を本当に深く理解するためには、「自然というものがカント哲学の中でどういう意味を持つか」ということが重要になるのですが、この話をすると大変長くなりそうなので、また質問があればお話します。その代わり、今日は「保証」という観点から、どうして付帯条項にこういう話が出てくるのかということをお話します。
 「保証」とはドイツ語原文ではGarantie、英語ではguaranteeですね。これは当時の法学上、2つの文脈で登場する概念です。1つは民法上の保証人です。民法を大学で勉強すると、契約は申し込みと承諾の2つの要素からなっていると教えられます。ところが、一人が申し込んで、もう一人がそれを承諾するというだけだと、実際に契約が履行されるかどうかは定かではありません。一方の人が「来月お金返すのでいま10万円貸して下さい」と言って、他方の人が10万円貸したとしても、その人がちゃんと返してくれる保証はどこにもありません。そこで、お金を借りた人がちゃんとお金を返すよう、保証人を立てておくということがなされます。これが保証です。つまり、契約を結んだ二人とは異なる第三者が保証人になるというわけです。
 こうした民法上の契約と同様に、国際法においても「保証」という概念が出てきます。例えば、戦争をしていた二つの国が停戦して和平条約を結ぶとします。このとき、お互いの国が信じられないので、第三国の強力な国に「どちらかが条約に違反しようとしたら、貴国がそれを諌めてくださいよ、あるいは武力で攻撃してくださいよ」と依頼するわけです。このようにして、条約の履行を保証するということが行われていたようです。実際、近代国際法の立役者といわれるエミール・ド・ヴァッテル(1714–67)は『国際法』(1758)のなかで、こうした保証について論じています。
 カントが『永遠平和』のなかで自然の保証という話をするときにも、やはりこうした法学上のコノテーションがかなりあるのではないかと思います。だとすると「自然が永遠平和を保証する」といった場合には、「人間は何もしなくても勝手に平和になりますよ」という話にはならないでしょう。
 保証には法学上、次のような含意があります。契約を結んだ二人にはそれぞれ契約を履行する義務が生じます。ところが、何かの拍子に片方が契約の履行を果たさないという場合が出てきます。その場合には、保証人がちゃんと契約を履行するよう圧力をかけたり、あるいは保証人が代わりに契約を履行するというわけです。
 したがって、「自然の保証」も次のように読むことができるのではないでしょうか。「人間はちゃんと義務として永遠平和に向かっていかないといけないけれど、その義務を人間が果たさなかったときには、自然がなにがしかの手を差し伸べてくれる」と。
 そしてカントは、これまでの人類史を見てくると、義務を果たそうとしない人間に対して自然が平和を保証してくれていると解釈できる部分があるという議論をしているわけです。例えば、アラスカのような人が住まない寒い地域にも流木が流れ着いて、そこで生活ができるようになり、交易もできるようになっているなどといったことが書いてあります。
 要するに、人類史を見ていくと人間がやったいうよりは自然がそういうふうに仕向けたとしか思えないような出来事が起こってきたよねという、歴史解釈の話です。自然が平和を保証するというのは、人間に対してのことです。特にこの『永遠平和』という本の性質上、人間の中でも特に政治家に「永遠平和が確実だ」ということを保証しているという議論になっているのだと思います。

上野: 非常におもしろい解釈ですね。このあたり、ゼミでは弁神論の関連で、「摂理」つまり超越的な存在が人間に対して善き意図をもって配慮していると考えないと説明のつきにくい自然現象や自然の配置と思えるものも、さまざまな可能的世界を考えると、単なる蓋然性の問題として解釈することもできてしまうかもしれない、といった議論をしました。しかし、バイラテラルな国家間関係における平和の約束=契約を保証する第三者、つまり保証人あるいは公証人のようなポジションに「自然」を置いたのだと考えると、相当に見方が変わってきます。永遠平和の保証を世界論的な視点から見るとナイーブな疑似目的論にも見えてしまいますが、この言説自体をエージェント間の交渉の過程の一部に置きなおすことで、ある種の説得の技法としての一面が浮かび上がってきますね。

網谷: カントの道徳哲学のなかに「当為は可能を含意する」という有名な考え方があります。「当為」は「〜すべきだ」、つまり義務です。可能は「〜できる」ということですね。「当為は可能を含意する」というのは、「〜しなければならない」という義務として指定されれる行為は不可能な行為を含まないという意味です。反対に言えば(専門的に言えば対偶をとると)、不可能な行為(「〜できない」)は決して義務にはならないということです。
つまり、「〜できない」なら「〜すべきだということにはならない」というわけです。ですから、「永遠平和をめざすべきだ」と主張する場合には「永遠平和は可能である」ということが含意されています。反対に、もし「永遠平和は不可能である」ということが証明されたなら、「永遠平和をめざすべきだ」ということにはならないということも言えるわけです。
 『永遠平和』の「付録」の中で、カントは道徳を自分の都合の良いように捻じ曲げる政治家がいると批判していますね。カントによれば、政治家は「人間はもともと性根が腐っているから、人間の本性からして永遠平和は不可能だ」と言い訳をして、平和を目指さない。つまり、永遠平和は義務であるはずなのに、政治家はそれに反論して「永遠平和は不可能だ、ゆえに義務ではない」と主張しているわけです。
 「自然の保証」という議論は、まさにこうした政治家に対する強力な再反論になっています。「人間がやろうと思ってもできないように見えることでも、これまでの歴史を振り返れば自然がやってくれたとしか解釈できないようなことがある。人間が意図してやったのではないにせよ、自然が人間を永遠平和に仕向けている」、そういう歴史解釈が可能であるというわけです。つまりカントは、自然の保証という歴史解釈を提示することで、悪意のある政治家に永遠平和は不可能ではないということを示しているのではないか。
 永遠平和が不可能であるなら、永遠平和を目指すべきではないということになってしまうわけですが、それをカントは否定します。そのためには「永遠平和は可能である」ということを示すことができればいいわけです。義務なのに「そんなことできないよ」と開き直る政治家に対して、「いや、自然は人間が嫌がっていたとしても、平和に向かうよう仕向けているんだよ。だから不可能じゃないんだよ」と言うことで、カントは「あなたたち義務を果たしなさいよ」と政治家に向けて言っているのではないか。こうしたことが自然の保証という「付帯条項」の役割になっているのではないかと思っています。
 このような形でないとしても、『永遠平和』全体の構成は平和条約のパロディになっているのだから、それをまともに受け止めてあげたらどうかと常々思っています。そうじゃないと、なんだかカントが「すべっている」感じになるではないですか。ちゃんと受け止めたうえで、「ツッコミ」を入れてあげたほうがいいのではないか(笑)。

上野: ありがとうございます。『永遠平和論』の本体である「確定条項」を前後で挟み込む「予備条項」と「付帯条項」が、実は本体部分が現実に機能するうえでたいへん重要な意味をもっているということがわかりました。では、確定条項について、お話しいただけますか。

網谷: 確定条項に関して、解釈上ポイントになるのは3つあると思います。第1に、共和制とは何か、共和主義とは何かという問題です。共和制というと、現代の日本語の語感では国王のいない国家のことを指すのが普通ですが、カントはどうもそういうことを言っているのではないらしい。第2に、カントがいう理想的な国際体制とはどういうものなのかという問題です。この点について、例えば日本だと柄谷行人という批評家が『世界共和国へ』という岩波新書を書いていて、それ自体は良い本だと私は思うのですが、カントというと「世界共和国を目指している」というイメージがあります。ところが、『永遠平和』をちゃんと読むと、そんなふうには書いていないわけです。では一体どういう国際体制がカントにとって理想なのか。第3に、世界市民法とは何かという問題です。
 これらについて、私と金さんの間で解釈が分かれたりするところもありますが、まずは金さんからお話いただけますか。

金: 先ほどの予備条項と確定条項の関係についての網谷さんの解釈にまったく賛成で、「予備条項というのは確定条項の前提条件にあるのだ」というふうに私も理解しています。どういう意味での前提条件かというと、やはり確定条項というのは、カントが想定するような理想的な制度設計にかかわるような、そういう案だと思う。
 そういう意味で、現代ではよくこれは「理想理論」と呼ばれています。理想的な制度や社会はどうあるべきかということを、カントが3つの視点から述べたものと言えると思う。でもそれはあくまで理想理論であって、そこにどうやって現状から到達するかということまでは含意してないわけですね。不正がはびこっている現状からどうやって理想的な状態へと至るのか。もっと現実的な案というものが必要になります。予備条項はまさにそういったものに対応しているのではないでしょうか。これは、理想的な制度を描いているというよりも、現状を変えていくための議論、「非理想理論」と呼ばれているものに対応しているといえると思うんですね。
 そうすると、確定条項というのは、まさに「正しさ」にかかわっているわけですね。正義とは何か、というのが制度的に実現された状態を描いている。それに対して予備条項というのは、不正義にフォーカスを当てているような感じがある。

上野: なるほど。正義の理念的構想を描く確定条項と、非理想理論(あるいは金さんのご著書の言葉でいえば移行論)としての「不正義論」という区分になりますね。たいへん明快な整理で分かりやすいです。これは近年の国際正義論でいえば、transitional justiceやrestorative justiceの問題として大いに議論されている話にも接続されそうです。

金: 今ある不正義を除去するということがまず最初に行われなければいけない。それから、予備条項ではさまざまな不正義について書いてあります。「他国の領土を買収、相続してはいけない」「他国の内政に干渉してはいけない」とか。あるいは最後の第6予備条項だと、「戦争においてやってはいけないこと」が書いてあるので、戦争するのが前提になっている。戦争はあるんだけど、そこではせめてこのことはしないようにしよう、と書いてある。すでにある不正は前提になっていて、不正行為がこれまでも行われてきたし、今後もある程度行われる事が前提になっている。それでもなお、そういった不正義を少しでも除去することによって、確定条項が描く世界に接近していく。そういうふうにカントは考えていたのだろう。だからこれは、カントの現実主義的な側面をよく表している気がします。

網谷: まさに最後の第6条項はスパイを使ったり、毒殺を使ったりということが禁止されています。こうした手段を使えば、他国との信頼が不可能になるからです。第2確定条項は国際連盟を作ることを要求しているわけですが、その際には他国との信頼関係は不可欠でしょう。やはり予備条項は確定条項の前提になっているのではないかと思います。

金: ちょっと話が飛んでしまうのですけど、別の著作である『人倫の形而上学』の中ではどうかというと、やはり理想的な社会に到達するためにはどうしたらいいか、ということをカントは理論的な著作のなかでも書いています。『人倫の形而上学』の中では伝統的な国際法についての議論をした後に、いわゆる「どういうときに戦争に踏み切ってよいか」という開戦法規についての議論をして、最後に国際連盟の話するんですけど、その間に「こうすれば理想的な社会に移行するかもしれない」というような道筋を示唆しているところがあるんですよね。
 だから、他の著作の中でもやっぱりカントは現状から理想へどうやって移行するのかってことをはっきりとは言わないとはしても、示唆する。そういう観点を忘れてなかったんだな、ということはいえると思います。

上野: 国際秩序の理想像についてはどうでしょうか。

金: はい、二つ目の理想的な国際体制のところですね。
 やはり永遠平和のためにの第二確定条項を読むと少し戸惑ってしまうのは、カントが、世界国家みたいなものを必ずしも要求していなくて、随分抑制された案で満足しているように見える、というところだと思います。
 つまり国際連盟をカントは選択しているように見える。なぜ世界国家ではなく、国際連盟なのか。もちろん、他にも選択肢はあって、網谷さんが書いているように「世界君主制、世界共和国、国際連盟」がありますが、おそらく「世界君主制」は「専制」なので、これは選択肢に入らないとしても、「世界共和国」か「国際連盟」の二つのうちでなぜ、「国際連盟」なのか。いろいろな理由をカントは挙げていて、一つは「そもそも国際法というのは複数の国家が併存している」ということを前提しているので、「世界共和国」はその前提と矛盾するという議論がある。これは、なぜその前提を取る必要があるのかという疑問を惹起する点ですが、とてもむずかしいところです。
 あとでもし時間があれば、何故「国際連盟」なのか、カントが挙げる理由は本当に妥当するのか、という問題についてちょっと考えられたらと思います。
 次に、共和制。

上野: これは一国内の政治体制がどうあるべきかという論点ですね。

金: はい。一般的に共和制の定義は「立法権と執行権が分離されている」ということです。専制君主が立法権も執行権も手中に収めていると、自分の好きなように恣意的に法を作ってそれを執行してしまう。そのため、立法権と執行権が分離されている状態が望ましい政治体制です。しかしこれは民主政ではない。おそらくカントが想像する民主政というのは、古代ギリシャがそうであったように全員が法制定に関与して、皆が法執行する。更に、ソクラテスが裁判にかけられたときがそうであるように、裁判みたいなことも全員でやる、全員で裁くということが行われている。それは非常に危険な事なんだ。実際ソクラテスが死刑に処されたので、法執行する人と立法する人というのをきっちり分ける。カントが民主政と共和制を分けるメルクマールととして考えるのはそこにある。
 問題になるのは、法を立法するときに、正しい法を立法するための制度設計として、カントがどういうことを考えていたのかという点では、意見がわかれる。解釈に幅ができるんじゃないかと思う。
 ひとつの解釈としては、これはちょっと無理筋なところもあるんですけど、現代の熟議デモクラシーを先取りするような仕方で、理性の公共的使用と言われるような、「人々が自分の頭で考えて、意見を互いに提示し合って、意見がぶつかったときに互いに説得し合う、そうすれば最終的にはより正しいと思えるような意見が残っていく。そういった意見が法になっていく」というような考え方が、ひとつありうると思う。
 他にも色んな解釈があると思うんです。立法権と執行権は単に分離されているだけじゃなくて、良い法を立法するためにはどうしたらいいのかという点で、おそらく網谷さんはちょっと違う点を強調されるのではという気がします。

網谷: 確かに『啓蒙とは何か』でカントが言っているように、「理性の公的使用」は重要でしょうし、それは政治にも密接に関係してきます。ただ、カントが共和制というときに、市民の熟議についてどこまで考えているのかということは、留保したいと思います。
 熟議というよりはむしろ一人で熟慮するという面のほうが強いのではないでしょうか。本当にこの法案が皆の利益になっているのか熟慮するということです。もちろんそうなると、単に立法権と執行権が分離されているだけでは、より良い法律の成立を制度的に支えられなくなるという問題は当然生じますが。
 ついでながら、カントは立法権と執行権が分離されていることを「代表制」と呼んでいるのですが、ここには注意が必要です。上野さんたちはどの翻訳で読まれましたか?

上野: 一つには指定していないのですが、『啓蒙とは何か』も読んだので光文社古典新訳文庫で読んだ人が多いと思います。

網谷: 中山さんはドイツ語のrepresentatives Systemを「代表制」でなくて「代議制」と訳していたと思います。その訳で読むとカントは、私達が選挙で政治家を選んで、政治家が法を作るという「代議制民主主義」を主張しているかのように読めてしまうのですが、そうではなくて、単に立法権と執行権が別々の人によって担われていなくてはならないということが言われているのだろうと思います。

上野: 輪読の際には、網谷さんの本を引用してまさにそのように注釈させていただきました(笑)。いずれにせよ、網谷さんとしてはカントの共和制に熟議の要素は読み取れず、むしろ熟慮ではないかということですね。金さん、いかがでしょうか。

金: そうですよね。ちょっとルソー的でもありますね。一般意志を生み出すためにはどうしたらいいか、すべての人が同意できるような意見を生み出すためにはどうしたらいいのか。パッと思いつくのは「皆で議論すればいいじゃないか」という考え方よりも、「皆で議論するよりも、自分の奥深く内省によってそういうのが見いだせるんじゃないか」。両方ともカントの中にはあるように見える、というのは確かにそのとおりだという気がします。
 で、これが第一確定条項で、国際連盟が第二確定条項。第三確定条項では世界市民法というのが書かれている訳です。この世界市民法というのはあきらかに3つの中でもかなり消極的な規定です。なんで消極的なのかというと、それはおそらく当時はびこっていた植民地主義というものが関係していたのだろうと思われます。カントとしては基本的に、ある国家に属している人が別の国家の領地に入るということは、色んなケースとして考えられるわけです。布教のため、交易のため、船が座礁して、など、色んなことがあり得えます。それは、禁じられるべきことではない。でも、他国の領土に入ってそこに住む事ができるという権利まで認めてしまうと、植民地主義的な活動を許容してしまう事になる。それを禁じながらもなお他国の領土に足を踏み入れる権利を確立しようと思ったら、ギリギリ世界市民権と呼ばれる非常に抑制のきいた権利になったのだろうと思われる。他国の領土に踏み入れる権利はあるけれども、前からそこに住んでいる人の生活を荒らしたりする権利はない。この2つの条件を満たそうとしたときに、消極的な「世界市民権」におそらくなったのだろうと、そういうふうに思います。

網谷: (滝川クリステルの手真似をしながら)「世界市民法」の「世界市民権」とは「お・も・て・な・し」ではない?

金: 両面ありますよね。他国の領土に足を踏み入れた人がやらなくてはいけない義務を規定しているし、受け入れる側の国家がやらなくてはいけない義務も規定している。両方に義務を規定しています。

網谷: でもそれはかなり抑制された消極的なもので、攻撃的にあつかってはいけない、攻撃してはいけないというくらいで、積極的に「おもてなししなくてはいけない」というものではない?

金: そうですね。はい。

網谷: やっぱりかなり消極的な話になるということですね。歓待は、現代思想の文脈でもよく論じられる重要な概念になってはいるのですが、カント自身の文脈に即して言えば、そんなに魅力ある概念なのかという疑問もあります。もっと抑制が効いている感じがしますね。

上野: オーディエンスの皆さんからもチャットで色々疑問やコメントが出てまして、ここで少し応答できればと思います。「自然の保証」の話ですが、民法上の契約でも保証人が重要になり、人間社会が国際関係においても永遠平和に近づいていくためには、人間の義務だけでは心もとない。何か人間社会に対する第三者として、自然がある種保証人のような形で存在していると。それが永遠平和にもとづく秩序を少なくとも可能であると保証しているということになる。会場の方からの疑問では、ある種の努力論、根性論とまではいいませんが、「可能だからそっちを目指せばいいでしょ」という話になると「可能性何パーセントなの?」という話にもなる。不可能じゃないかも知れないけど、無限にある可能性のうちのたったひとつで、しかもたとえば昨今の非常にきな臭い国際情勢だと「非常に可能性低そうだ」という印象が広がっているところでは、可能であるというだけでその秩序を未来構想として提示した場合には、説得力はどのくらいあるのでしょうか。例えばオバマさんが「Yes, we can!」と言ってるときにはいけそうな気がするのだけど、トランプさんが大統領になって新型コロナウイルスのことで中国とたいへんな状況になったときに皆そっちのほうを向かなくなる、という状況を考えてみるといいかもしれません。これは網谷さんが論文でも書かれ、金さんがご本の最後の章で網谷さんの論を引きながら議論していることで。そこをお二人どう説得するかな、という点をお聞きすればよいでしょうか。あるいは蓋然性の問題、と言ってもいいかもしれない。

網谷: 自然の保証の議論は、「できない」と言っている人たちに「できる可能性がある」ということを示すための議論だと思っています。カントは「自然決定論」みたいな話をしているのではありません。「永遠平和なんて無理だ」とうそぶく政治家に向けて、自然の保証の議論は提示されています。
 カントのそれまでの議論が非常に説得的であれば、この話は本当は必要ないはずです。つまり、人間には自由の権利があり、自由の権利が保障されるためには共和制でなくてはだめで、さらに対外的な関係でも国際連盟が必要だと、カントはさんざん論じてきたわけですが、それだけでもう十分説得的だったら、あるいはそれに十分説得されるような良い政治家ばかりであれば、「自然の保証」云々という必要もないでしょう。しかし、実際にはそんなに物分りの良い政治家ばかりでもないということをカントは意識していて、公式の法哲学・政治哲学の議論とは別の説得の仕方を模索しているのではないか。
 その上で、先程金さんが少しお話になりましたが、非理想理論的な部分をカントに読み込むことができるのではないかと思います。理想理論というのは、ほぼ現実を顧みずに「こうあるべきだ」という世界だけを描くわけですが、実際にはもっと地に足をつけて、どうやって現実を理想へと変革していくのかというところで、非理想理論が重要になります。
 例えば『永遠平和』の「予備条項」の一番最後の注に、許容法則というよくわからない話が出てきます。許容法則とは、何らかの理想や規範があって、しかしそれがすぐには実現されないのであれば、時宜にかなったタイミングが来るまで待ちましょうということを許容する規範です。これは、単に理想は実現不可能だと言って何もしないということではありません。理想が実現される適切なタイミングをうかがう、あるいは理想に到達するために少しでもなにか現実を変えていく、そういうことがあれば、今すぐには理想を実現できなくても許容されうるということです。
 義務論を打ち出したこともあって、道徳哲学者としてのカントには、「絶対に嘘をついてはいけない」、「絶対に約束を守れ」など非常に厳格なイメージがあります。義務を遵守するかしないかの二択の人と思われがちです。しかし政治の分野ですと、カントは理想を実現するかしないかの二択でものを考えているのではなくて、現実と理想の間にグラデーションを見ています。現実と理想のあいだのグラデーションのなかで、「よりマシ」、より理想に近いところへ模索することこそ、政治家の役割だとカントは考えているのです。
 トランプの話もありましたが、それでも理想に近づいていくために手近なところで何ができるかという議論は、カントからも言えるのではないでしょうか。

金: 私も「自然の保証」のポイントというのは、やはり永遠平和へと向かう行程が不可能ではないというのをカントが示したかったという非常に慎ましい目的のために書かれたものなんだ、とまずは理解しておくべきだと思うのです。
 「義務が可能を含意する」と先ほどご紹介あったように、不可能であることを目指すのは馬鹿げたことなので、やっぱり不可能ではないということだけでも示しておかなくてはならないという事をカントも考えたと思うのです。でも、そこにもうちょっと積極的な意義みたいなものを読みたくなるし、読み込んでいいと思うんですね。それが網谷さんが分析なさったように「可能である」というような道筋のそういった歴史の行程を描くことによって、そっちの方向へと人々を向かわせるという、実践的な効果を見込めるのではないか。そういうふうにカントは考えたというふうに読む事も出来ると思うのですね。
 まとめると、不可能ではないということを示すことが「自然の保証」の目的ではあるのですが、やはり「可能である」という視点から歴史を描くことによって人々をそちらの方向へ駆り立てるという実践的な効用がある、というふうに言えると思います。


金 慧(きむ・へい)
千葉大学教育学部准教授。 早稲田大学大学院政治学研究科博士後期課程単位取得退学。博士( 政治学)。早稲田大学政治経済学術院助手、 日本学術振興会特別研究員を経て現職。著書に『カントの政治哲学:自律・言論・移行』(勁草書房、2017年)。
網谷壮介(あみたに・そうすけ)
獨協大学法学部専任講師。京都大学経済学部卒、 東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程修了。博士(学術)。 立教大学法学部助教を経て現職。著書に『共和制の理念: イマヌエル・カントと一八世紀末プロイセンの「理論と実践」 論争』(法政大学出版局、2018年)、『 カントの政治哲学入門:政治における理念とは何か』(白澤社、 2018年)。
上野大樹(うえの・ひろき)
一橋大学社会学研究科研究員。思想史家。京都大学大学院人間・ 環境学研究科博士後期課程修了。京都大学博士。 日本学術振興会特別研究員DC、同特別研究員PD等を経て現職。 一橋大学、立正大学、慶應義塾大学にて非常勤講師。 最近の論文に、"Does Adam Smith's moral theory truly stand against Humean utilitarianism?" (KIT Scientific Publishing, 2020), "The French and English models of sociability in the Scottish Enlightenment" (Editions Le Manuscrit, 2020).
【市民講座「みんなで読む哲学入門」次回イベントのお知らせ】
市民講座「みんなで読む哲学入門」では、西洋近代哲学の古典をとりあげ、上野大樹先生(政治思想史専門)と一緒に入手しやすい文庫を中心に読み進めています。
・著者と語る 哲学オンライン対談(2): 井奥陽子『バウムガルテンの美学』をめぐって【みんなで読む哲学入門・特別編】(※終了しました)
◎日時:2020年11月16日(月) 19時〜21時
こちらは上野大樹先生がオンラインで対談する一回完結のイベントになります。井奥陽子著『バウムガルテンの美学』(慶應義塾大学出版会)を題材にとりあげますが、未読の方も奮ってご参加ください。

・みんなで読む哲学入門:アダム・スミス『道徳感情論』#3
◎日時:2020年11月30日(月) 19時〜21時
こちらはアダム・スミスの『道徳感情論』を上野大樹先生と一緒に読む講座です。

※これまでの授業の様子はブログの授業ノートなどをご参照下さい。どのような話題が登場したのか雰囲気がお伝えできれば。
ブログ「みんなで読む哲学入門

KUNILABOの活動、人文学の面白さに興味や共感いただけましたら、サポートくださいますと幸いです。