見出し画像

「ヘイト米屋」を「糾弾」する人たちへの違和感【2】

続きです。

間違った「カウンター」が引き起こすこと


黒川を一貫して擁護している野間易通は、これは「平和的なスタンディング」である、など書いてはいるが、私が見たかぎりでは結果として、個人店への「攻撃」となってしまっていた。
Googleの低評価や、お店の前に集まるよう呼びかけることなど。

これらの行き過ぎた、いや、間違った「反差別活動」が呼び寄せるトラブルは、お店側にも、お店で働く人たち、買い物に訪れる近隣住民にとっても、迷惑以外のなにものでもない。

そしてそれらへの反発は、言うまでもなく、「在日外国人」に跳ね返ってくる。理解できない極端なことをする人物=悪者は「外国人」なのである。この国では。

黒川を「外国人」と決めつける言質や、これらのカウンターを支持することを「反日」であるとか、これだから外国人に政治に関わらせるとろくなことはない、といったものも多く見られる。

統一協会と自民党の癒着問題を「韓国から来たカルト」に国が乗っ取られている、などと単純化して他人事として語る人が多いことを見れば自明のことだが、なぜか、「反差別」を掲げて集結をしようとしている人たちにはそれが全く見えていないようだった。



当然ながら、このお店に関わる人の中にも「在日外国人」の方がおられるはずだ。近隣住民にも。
私は、それらの人が今回のことをどう思っているのか、とても気になる。
怖がっている子どもたちもいるのではないかと、心配している。

自らの排外的な思想をそのまま言葉にしてSNSに投稿してしまう店主のもとで働くことは(私なら)怖い。
そしてそのような店主から買い物をするのも(私なら)嫌だ。
だが、生活をするためにある程度黙認をしている部分があるのも事実だ。

そして、それ以上に、住んでいるところ、働いているところに、その店主の「発言」を誉めそやす人たちが押しかけることも十分ストレスだと思う。

もしこれがエスカレートし、近所で「排外主義的」な主張をする人と、「レイシストは出ていけ」と圧力をかける集団との小競り合いがあったら。
自分はどのような態度を取ればいいのか?
場合によっては危害が及ぶのではないか?
家族は大丈夫だろうか?
そんな心配もしなければならない。

「レイシスト」に「現場」で対抗している「自分」に酔い、「活動」を美化しているだけの人には、当事者が生活の中で感じているストレス、痛みは想像できない。

今回のことを肯定して集まっている当事者のカウンターもいるようだが、果たして、自分とは違う感じ方をするであろう、近隣の生活者にも配慮ができているだろうか。
あなたは、差別的な店主からはものを買わない、と断言でき、そういう店主の元では働かないことも選択でき、「差別的なことは書かないでください」と店主や同僚に面と向かって言えるかもしれない。
そしてあなたは、排外的なコミュニティから比較的たやすく引っ越せるかもしれない。(そもそも100%は無理ではないだろうか)
仮にあなたがそれをできたとしても、できない「弱い」立場に置かれた人もいるはずだ。

そういった、自分よりもマイノリティ性を二重、三重に抱えた「当事者」のことが想像できているだろうか。
もう少し客観的に考えてほしい。

間違った「カウンター」行動が排外主義的な人の主張を増長させ、そこに住む当事者を、より抑圧する行為に加担していないだろうか。


当事者が日々体験していること

このnoteで私が一貫して書いていることでもあるけども、「被差別属性を持った当事者」にとっては日常生活のさまざまな場面が闘いである。

いろんな場面で差別的な視線や言葉を浴びたり、弁えさせられたり屈辱的な扱いを受けたりもする。
漠然とした不安から、消えたい、という気持ちと闘ったり、身近な人に言いたいことが伝わらなかったり、誤解されたり、黙ってその場を去るしかなかったり、自分だけが考えすぎなのかと悩んで仕事が手につかなかったり、そんな瞬間が数えきれないほどあるのだから。
(たとえ小さくとも、回数が多く、絶え間なくそういった攻撃に当たり続けると、それだけで疲れてしまう。時間を奪われ、心の平安が保たれない。これが、マイクロアグレッションを受けていること)。

その事実を「ヘイトスピーチを浴びているのではないのだから、あなたが体験していることは差別ではありません」などと、マジョリティ側に否定されたくない。

「マイクロアグレッション」への訴えを否定して来た「C.R.A.C.」やその賛同者の人たちは「ヘイト」の「現場」に行くことが「反差別」と主張する。

当事者不在の反差別活動など、空っぽだ。
いくら「ヘイトスピーチは魂の殺人だ」などわかったようなことを叫んでも、響かない。

マイノリティの言葉を封じ込めたことはなかったか。
同じマイノリティの、さらに弱い立場の人を抑圧してこなかったか。
「それはヘイトスピーチではない」と言って否定してこなかったか。
「現場に来いよ」と当事者を、煽ってこなかったか。

「いつでも自分は現場にいる」と書いていたあるマイノリティの人がいる。
私もそれに同意する。


私刑を許してはいけない


前の記事で私は以下のことを「小さな暴力」と書いた。
正当性のない、相手を貶めるためのアンフェアな行為、そして法に則らない「制裁」。

デモ行進や署名活動、特定の商品を買わないという意思を示すボイコットなどは社会運動ではあるが、「正当性の得られない実力行使」に及ぶのはもう暴力なのだ。行ったことのないお店を貶めるGoogleのコメントひとつとっても。
「ヘイト街宣」が行われている「現場」で、ヘイトに反対と強い言葉で「排除」を示すことと、「排外的主張をする店主がいる(だけの)店」への対応は、分けて考えるべきだ。

一方は「こういった暴力を排除するために市民は何をしたらいいか」という問題であり、一方は「排外思想を持っている人との対話」という軸で語るべき問題だからだ。

暴力にノーという態度を取らないと差別は無くならない。
差別が暴力そのものなのだから。
差別を糾弾する自らが暴力に関わるなど、あってはならない。人は誰でも間違えるけれども。だから、振り返ろう、慎重に。


*黒川の差別発言についても触れたかったですが、長すぎるので、また書きます。


【1】【2】だけでも多くの人に読んでいただけると嬉しいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?