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ブッダの瞑想法−−10日間の心の手術 2009/09/16〜27[day7]

■9月23日(水)

 やっと修業7日目に入った。5日目を終えるころはまだ半分(実質10日)あると思っていたが、少しずつゴールが見えてきた。昨夜、全身が感覚の振動に包まれたせいか、朝の瞑想時間も順調に感覚が現れている。それでもやはり、頭と胴体はほとんど感じない。8時からのグループ瞑想は、昨夜の感覚と同じように手足の全体で感覚を感じられるようになった。

 午前中の瞑想を楽しく終えたものの、13時からの瞑想はまったく身が入らない。昨日の感動もあって午前中は集中できていたのだが、かなり疲れてしまったようだ。頭や胴体の感覚はいまだに感じないが、手や足の感覚さえもだんだん鈍ってわからなくなってきた。これではいけないと思い、テントに戻って体を横にする。
 お昼の質問時間に、昨夜の体験を先生に聞いてみる。感覚に包まれた状態になったときに、どうすればいいのか確認すると、それは8日目からの指導にあるので、そこで学んでくださいと言われた。どうやら指導内容を勘違いして、ちょっと早く、次の課題をやってしまったようだ。

 サンカーラ(反応)について、まだ頭で整理できないないことも質問する。寝返りのように無意識に体が動いてしまうこともあるし、何か嫌なことを言われたら心にトゲが刺さってしまうのは避けられない。
 であるならば、トゲが刺さったことに対して、「痛い、嫌だ、なんてひどいことを言うんだ」と反発するのではなく、「ああ、トゲが刺さってしまった」と客観的にそれを観察することで、いつかトゲが抜けることなのだろうか。
 ヴィパッサナー瞑想をすることで、心が反応する前の段階の意識を観察するのか、反応したあとの状態を観察するのか、どちらかわからなかったのだ。先生によると、反応したあとの状態を観察するようだったが、嫌なことを言われてもトゲが刺さらない状態を保つということも言われた。それはやはり、反応する前に意識をストップしているのではないのか?
 また渇望のサンカーラについても聞いてみた。自分の大きな家が欲しいという欲がいけないのはわかるが、王子の持っている庭園にブッダの教えを受けられる瞑想センターを建てたいという欲もまた、渇望ではないのだろうか? どちらも「〜したい」ということに変わりがない。渇望のなかにも、いいものと悪いものがあるのではないか。それについて、先生は次のように答えてくれた。

 「〜したい」という希望を持つことは
 人生においてたいせつです。
 もしそれが実現しなかったときに執着してしまうなら、
 それは渇望です。
 実現しなくても、まあいいか、いつか実現しよう
 と流せるものは純粋な希望です。

 たくさんお金を持っている人がブッダに出会い、その教えを多くの人に知ってもらいたいと願って、王子の庭園に瞑想センターを建てることは、だれかの幸せのためでもある。立派な自分の家を建てたいという気持ちとは、そこで大きく違っているのかもしれない。

 14時半からのグループ瞑想では睡魔におそわれ、アーナーパーナもできず、なんとか座っているだけの時間を過ごす。そのあとの瞑想時間もテントに戻って休む。しばらく横になったあと、別に座らなくても感覚は観察できると思い、寝ながら意識を置いてみた。
 すると再び手足に少し感覚を感じられるようになった。上腕部に意識を置いて、マッサージするような感じでぎゅっと握ったようなイメージを作ってみる。すると実際には触れていないのに、ぎゅっと握られた感触が残り、そのまま指先まで意識のマッサージを試みると、じんわりと腕全体がしびれるようになったあと、細かい感覚を観察できるようになった。同じように足のほうも意識のマッサージを試みると、昨夜のような手足の感覚が戻ってきたのだ。
 ティータイムのあと、意識のマッサージを全身にやったあとグループ瞑想に入る。意識のマッサージで“準備体操”をしたせいか、今度は昨夜のように細かくはっきりした感覚を感じられるように、1時間があっという間に過ぎていった。
 19時から講話が始まる。

 この瞑想法には、二つの大切な面があります。
 明晰な意識で気づいていること、
 そして心の平静さ、です。
 心の静けさが保たれるようになると、
 それまで感じとることができなかった部分にも、
 自然に感覚が現れてくるのを知るでしょう。
 そして、身体全体に、
 大変きもちのよい
 エネルギーの流れを体験するでしょう。

 この気持ちよい感覚の流れを感じると、修業の最終目標と錯覚してしまう人がいるようだ。気持ちのよいものも、嫌なものも、心を平静に保って観察すること。特定の感覚を観察するのが目的ではなく、どんな感覚に対しても心のバランスを保つようにするのが目的なのだから。
 人生を本当に変えたいと思うならば、身体の感覚を観察することを通して、心の平静さを育てなければならない。感覚は、一瞬一瞬身体の内に生まれているのに、意識の上では、それに気づいていない。
 けれども、無意識な部分の心はそれを感じとっていて、好んだり嫌ったり、と反応しているのだ。肉体構造の中に起こるすべてを感じとり、同時に平静であるように心を育てるならば、盲目的に反応する心の習性は、打ちくだかれるだろう。
 どのような状況にあっても平静であること、それを身につけさえするならば、調和のとれた幸福な人生を生きることができる。

 明日は1日、スケジュールがありません。
 これまでの修業を日常生活に生かすために、
 特別な瞑想方法を学びます。
 だからといって、
 いつも瞑想ホールに座って瞑想しなくてもかまいません。
 休憩時間中も同じように、
 感覚に気づきながら
 心の静けさを保つように心がけます。
 歩くことであれ、食べることであれ、
 飲むことであれ、入浴することであれ、
 いつものように行ないなさい。
 故意にゆっくり行動してはなりません。
 身体の動き、
 そして同時に感覚に気づいていなさい。
 可能ならば、動かしている身体の
 その部分の感覚に気づいていなさい。
 さもなければ、
 そのほかのどの部分でもかまいませんから、
 感じとれる部分の感覚に気づいていなさい。
 同じように、夜床についたならば、
 目を閉じて、
 身体のどこかに感覚を感じとりなさい。

 この話を聞いた僕は「習いたかった日常のなかでできる瞑想方法がやっと始まる」と期待を抱いた。8日目からは、歩く瞑想があるのだろうか? しかし、カタツムリのようにゆっくり動いてはいけないらしい。ブッダは言う。

 一瞬も怠ることなく、
 感覚にたいして意識をとぎすませ、
 心の平静さを保つ熱心な瞑想者は、
 感覚をよく知って、智慧を育てる。

 知覚力(気づきの力)を養い、平静さを育てながら正しく修行するならば、だれでも、涅槃(ニッパーナ)の境地に達することができるという。そかしそれは、一人ひとりが自分自身で修行しなければならない。

 修業を妨げる5人の敵(渇望、嫌悪、睡魔、動揺、疑惑)に対するように、5人の友を見方につけよう。最初の友は「信心」(サッダー)。盲目的にだれかの言うことを信じるのではなく、聖者や神のもっている良い徳を自分の内にも育てようという気持ち。
 例えば、ブッダに帰依するといっても、ブッダ本人ではなく、悟った人の教えを自分のものとする意味なのだ。ブッダを正しく敬うということは、宗教儀式や祭礼によってではなく、教えを実践することに尽きる。
 次の友は「努力」(ヴィリヤ)。ガンジス川に舟をこぎだした修行者たちは、必死になって一晩中舟をこぎ続けた。翌朝、はるかかなたの土地に着いたと思ったら、そこは出発した場所と同じだった。舟のロープが陸につながれたままだったのだ。間違った努力をしていたら良い結果は得られない。
 次の友は「知覚力」(サティ)。知覚力、気づきは過去のものでも未来のものではなく、現在、この瞬間のものである。過去は思いで・記憶、未来は期待・不安・恐れがあるのみ。この瞬間、自分自身の体に現れる事実を知覚する能力を養おう。
 次の友は「心の集中力」(サマーディ)。瞬間から瞬間へと、とぎれることなく現実を知覚し続けること。何の想像もなく、渇望や嫌悪もないとき、それは正しい集中になる。
 最後の友は「智慧」(パンニャー)。講話を聞いたり、本を読んだりして、頭で得る知恵ではなく、体験を通して自分自身の内に育てるもの。身体の感覚に対し、無常の性質を理解しながら、平静さを保つ。心の奥深くでの静けさが得られるようになると、日常生活の浮き沈みにあっても心のバランスは崩れないのだ。
 明日の期待が高まって、講話の内容が耳に入らない。体と連動させると記憶しやすいと読んだことがあるので、こういうときには指を折りながらひとつひとつのキーワードを覚えていく。講話の途中でも順にキーワードを思い出して次を増やしていく。
 講話のあと、先生に質問する。夕方、感覚のマッサージをしたらいい状態になったのだが、そういうことをしてもいいのか聞いてみた。「それはヴィパッサナーではないのでしないでください」とはっきり言われてしまった。感覚がないとそれに対して落ち込んでしまうので、少しでもきっかけを作れればと思ったのだが、あくまでもヴィパッサナーは意識を置いたときの感覚を観察するものであって、感覚を意識的に作り出してはいけないのだ。
 
 昨夜の言葉のリードはいつか使わなくてもよさそうだが、感覚のマッサージはクセになるとそれに頼りかねない。やはり先生が言うように、この方法は使わないほうがいいだろう。
 けれども、まったく感覚を感じないと悩んでいる人には、感覚がどんなものかわかるきっかけになるかもしれない。瞑想のときではなく、休憩時間に少し試してみるくらいなら、感覚に渇望している状態は収まるかもしれない。
 自分を振り返ってみても、感覚を感じられるようになったことで、感覚がない状態でも「感覚がないときもあるのだ」と割り切れるようになった。それが、一度も感覚を感じずに、感覚がどんなものか想像できないときは、どんどんネガティブな状態に入ってしまうのだ。
 テントに戻り、講話のキーワードを指折り確認しながら、明日に期待して眠りにつく。

イラスト|マシマタケシ


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