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ブッダの瞑想法−−10日間の心の手術 2009/09/16〜27[day9]

■9月25日(金)

 修業9日目。10日目は会話ができるようになるので、修業に集中できるのは今日だけである。4時半からの瞑想はアーナーパーナの集中をしながら、これまでの修業内容を振り返ってみる。最初は鼻の下の感覚を感じられず、いったいどうなるのか不安になったが、4日目のヴィパッサナー瞑想が始まってからは、これまで感じなかった体の感覚を楽しむことができた。

 ブッダは自分の体を観察することで宇宙の仕組みを解明し、悟りを開いた。自分の体を観察することは、知的好奇心を満たしてくれるおもしろい行為なのだ。ピリピリしたり、チクッとしたり、さまざまな感覚が生まれては消えていくというのは、簡単に言えば新陳代謝を実感しているのかもしれない。けれども、それが流れのように体中を駆け巡るというのは、いったいどうしてなのだろうか?
 6時半に食堂に行って、いつものように窓の外を眺めながら食事をしていると、ふと頭の中に少し前に鑑定してもらったインド占星術のウマ氏の言葉が浮かんできた。

 40歳以降、何のために生きるかというと、
 それは精神世界に関する活動をすることです。
 人々や社会のお役に立つ活動をこれからの人生を目標としてください。
 そのプログラムはもう起動しています。
 スピリチュアルな能力を身につけたり、勉強したりして、
 それを生かして人々のお役に立ってください。
 そしてこれが大事なことですが、
 お金のためにやる仕事ではなく、
 人々のためにやる仕事ということを意識してください。

 そして、手相カウンセラーのワジョリーナさんを通して、この修業に来る前に聞いた守護霊さんの言葉が浮かぶ。

 四国のお遍路に行かなくてもいいのです。
 北関東の田舎で、これからやることが見つかります。
 農業をしている人ではなく、何かをリードする人です。

 人の心と体を癒す仕事で、お金のためではないもの。千葉は北関東ではないが、ゴエンカ氏は瞑想をリードする人である。これはつまり、ヴィパッサナー瞑想を伝えていくことが、これからの僕の役目なのかもしれない。四国で感じた「信仰心は自分のなかにある」ということが、ブッダの教えとヴィパッサナー瞑想の実践によって、まったく同じことが伝えられる。そう思った瞬間、涙があふれそうになり、そそくさと食器を片づけて外に出て、敷地の端まで歩いていく。

 ゴエンカ氏はヴィパッサナーをお金儲けに使ってはいけないと、細心の注意を払っている。もし僕がヴィパッサナー瞑想を紹介する本をまとめようと思ったときに、それは結果的に収入に結びつく。それは悪いことなのだろうか? 何かの行動を起こすときに、愛と慈しみを持って行ないなさいと教えられた。ヴィパッサナー瞑想を紹介する本を書く目的は、こんなに素晴らしい瞑想があることをもっと知ってもらいたいという純粋な気持ちからだし、仮に印税がもらえないとしても、そこにこだわっていない自分がいた。

 8時からグループ瞑想が始まる。朝の気づきで、自分の中では、今回の修業は目的を達したような気持ちになっていた。最終日の日常の中に生かす瞑想方法に対する期待は残っているが、感覚を観察することについては、気持ちに区切りがついたようだ。
 その後の瞑想でも感覚の流れがぐるぐる回っていたが、それをおもしろいと感じることは少なくなった。たしかに最初に感じたときはおもしろいとか気持ちいいと思うが、何度もその感覚があると新鮮さはなくなってくる。けれどもその感覚に執着して期待し続けると、おもしろさや気持ちよさに喜び続けてしまうのかもしれない。
 午後の瞑想は、ちょっと鼻や耳が詰まったような感じになり、アーナーパーナに集中できない。口で呼吸してみるものの、やはり集中が続かないので、テントに戻って休むことにした。14時半からのグループ瞑想はとにかく座っているだけにして、そのあとの瞑想時間もすぐにテントに戻ってしまった。

 修業に納得したものの、ひとつだけ、心残りな部分があった。「体の一部に凝固した鋭い感覚、不快な感覚」があれば観察しなさいと言われるのだが、凝固していて鋭いという日本語の意味がよくわからなかった。けれどもその感覚は、感覚を感じない部分に潜んでいるという。
 最初は真っ暗闇の状態だが、しだいに薄曇りになり、雲が消えてはっきりしてくると、その凝固した鋭い感覚が現れるらしい。そしてこの凝固した感覚が、過去のサンカーラが表面に現れていることだという。
 10日間の修業のうち、だいぶさぼっていたので、この感覚は出てこないだろう。先生に聞いたときも「まだそういう時期にないのかもしれない」と言われた。

 夜のグループ瞑想で、ちょっと実験をしてみることにした。感覚器官が何かに触れたときに、必ず心は反応しているというならば、視覚や聴覚の刺激に対応するように、体のどこかに感覚が現れているはずだ。目を閉じているので視覚は感じられないから、虫の音に耳を澄ませてみる。たくさんの秋の虫が鳴いているなかで、コオロギの羽音に意識を向けてみた。
 すると、お腹の左側の奥のほうが、虫の音に反応してかすかに振動している。実際にそれがコロオギの音に対する感覚なのかわからないが、虫の音と連動しているのは間違いない。ヴィパッサナー瞑想は、こういったほかの感覚器官に対する反応も見るのだろうか?
 19時になり、講話が始まる。

 九日目が終わりました。
 この瞑想法を日々の生活のなかで
 生かすにはどうすればよいか、
 お話するときがやってきました。
 これこそが最も大切なことです。
 どんな人にも、
 いやなこと、望まないことが起こります。
 何か望まないことが起こると、
 心のバランスを失い、反意を生み、
 みじめになるのが人の常です。
 それでは、みじめさの原因である
 反意を生み出さないためには、
 やすらぎと和を保ちつづけるには、
 どうしたらよいでしょうか。

 例えば映画を見に行ったり、お酒を飲んだりして、快楽で気を紛らわせるという方法がある。ところが快楽は心に執着を生むので、執着が大きくなればなるほど、みじめさも大きくなってしまう。次に賢者が考えたのは、快楽以外のことに心をそらすという方法だった。反意が起きてきたら、少し歩く、水を飲む、数を数える、あるいは信仰する神や聖人の名前を唱える方法だった。しかし、悟りに至った人々には、注意をそらすことは問題から逃げることであり、また、反意を心の表面から心の奥深くへと押しやることにすぎないということがわかった。心の奥底では、押し込められた反意がくすぶりつづけ、ある日、再び表面に姿を現してくる。

 心に反意が起こるとき、注意をそらして抑圧するのでもなく、言葉や身体の行為で発散するのでもない、ただ観察するという行為は、たいへん難しい方法だ。反意が起きるきっかけとなった外側の対象に、意識が引っ張られてしまう。
 心に反意が生まれるとき、呼吸が普通ではなくなり、身体に生化学的反応として感覚が生まれる。ヴィパッサナー瞑想によって感覚を観察することはできるが、それが難しいとき、呼吸だけに意識を置いてみるといい。怒りの感情がわいてきたとき、必ず呼吸が早くなっているはずだ。呼吸が早くやっている。自分は怒っているのだということを意識し、客観的に「私は怒っている」と心でつぶやいていると、そのうち呼吸が落ち着いてきて怒りも静まってくるだろう。

 人は、習慣から、
 いつも外を見て暮らしています。
 この習慣のせいで、
 自分の不幸の原因を常に外に求め、
 他者に責任を押しつけ、
 外側の現実を変えることに専念します。
 しかし、
 どんなに力がある人でも、
 外の世界を
 自分の思いどおりにすることはできません。
 そんなことにエネルギーを
 浪費するよりはむしろ、
 自分自身の内側に目を向けるべきです。
 内なる観察をとおしてこそ、
 自分自身を守ることができるのですから。

 例えば、AさんがBさんに嫌なことを言われてみじめになったとき、ヴィパッサナー瞑想者ではないAさんは、その原因はBさんにあると思ってBさんを責めるだろう。しかし、ほかの人を傷つける言葉を使ったBさんは、その場で自分自身の心を汚し、みじめさを生み出している。Bさんに反発したAさんも同じように、自分自身の内側にみじめさを生んでいる。不幸の種はどちらにもまかれてしまうのだ。
 人は何に対して反応するのだろうか? それは自分が作り上げた「私」というイメージに対して反応しているのである。相手に知ってもらった「私」のイメージと違うときに反発してしまう。これは自分自身だけでなく、「私の物」に対しても同じで、さらに「私の子ども」についてもよく思ってもらいたくなる。

 これは人に対しても同じで、相手に何か嫌なことを言われたことを覚えていると、数年あとに再会したときに嫌な人というイメージを持ってしまう。逆にほめてくれた人にはいい印象を持ち続ける。
 本当に嫌な人とかいい人とは関係ないとしても、そのイメージ(色眼鏡)で見てしまうのだ。それぞれ自分の色眼鏡で世の中を見ている。自分と他者の色眼鏡は色が違うのに、その違いに対して対立してしまう。色眼鏡を外して見ることが必要なのに、人はみな、自分の色眼鏡が正しい世界だと勘違いしてしまうのだ。

 ヴィパッサナーの修行を助け、苦悩から幸福へと導く10のパーラミー(徳)がある。自我を捨て何も所有しない「出家」、五戒を守る「道徳律」、心を浄化するための「努力」、頭ではなく体験を通して得る「智慧」、大勢のなかで修業する「忍耐」、戒律を守ることで得られる「真実」、修業を続けるという「決意」、我欲のない純粋な「慈悲」、どんな感覚に対してもバランスを保つ「平静さ」、自分のためだけではなくほかの人のために行なう「布施」。10日間のコースでは、これらのパーラミーを自分の中に育てる機会が与えられている。

 講話が終わり、先生に質問する。今日の午後、鼻が詰まった感じがしたので、ヴィパッサナー瞑想は口の呼吸でもできるのか聞いてみた。答えは「かなり難しい」とのこと。鼻炎を持っている人や、風邪で鼻が詰まっている人は、なかなか集中できないようだ。
 もうひとつ、虫の音に対する体の反応については、広い意味でヴィパッサナーを捉えればそれも可能かもしれないが、今は考えないで、言われたことをやってくださいとのこと。当たり前である。ついつい、余計なことを考えて試したくなるのは、性格だからしかたない。

 テントに戻り、虫の音に対する反応について考える。音に対する体の感覚は確実にあり、それを観察することは可能だとしても、ヴィパッサナー瞑想の目的は心の浄化であって、体の反応を観察することが目的ではない。であるならば、心の浄化に役立たないから、これまでの歴史の中でもやっている人が少ないのではないか? 感覚のゲームとしてはおもしろいかもしれないが、心の浄化を目的とするならば、やはり伝統的に指導されてきたことを続けるのがよさそうだ。
 いよいよ明日は、目的としていた日常生活の中で生かせる特別な瞑想方法を習える。「聖なる沈黙」がとかれ、筆記具が使えるようになるので、これまで記憶したことを一気に書き出さなければいけない。7日目くらいから記憶があいまいになってきているので、なるべく早めにメモをとらなければ。

イラスト|マシマタケシ

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