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どうしようもなさを許容する都市としての東京

私が生まれたのは横浜の鶴見という、港町特有のダーティな印象のある街だったが、それからすぐ東京——というには心許ないような多摩地区の長閑な街——に越してきて、ひたすら東京の西部を行ったり来たりしてかれこれ20年近く東京に住んでいる。

私は海外経験が全くないにも関わらず、東京を世界最高の都市だと信じていて、今日は東京を礼讚する文章を書こうと思う。

東京の偉大さはすべて、人口による。東京都だけで1,300万人、日本の人口の1割にも上る人間の多さは、個々人の存在感をいい意味で薄めてくれる。朝、新宿駅で京王線からJRに乗り換えるたびに、その連絡通路が見渡す限りの人で埋まっているのを見て、彼ら1人1人に人生があることを考えて気の遠くなるような思いをしている人は、おそらく私だけではないだろう。

その莫大な人口は、社会のメインストリームから外れることを容易く許容してくれる。東京なら外れ者ですら数十万のオーダーでいる。田舎の集落であれば完璧なまでのマイノリティとなって悪目立ちしてしまう人間も、東京であればワンオブゼムで、誰も自分のことなんか気にしないでくれる。東京はどうしようもない人間に優しい。

莫大な人口は外れ者にも居場所を与え、莫大な人口がもたらす莫大な経済は、外れ者でもまあ野垂れ死ぬことはない程度の余裕を社会にもたらす。そうして社会の「遊び」となった外れ者たちは、場合によってどうしようもない演劇やどうしようもない音楽、どうしようもない詩作などをやりながら、稀に文化の萌芽となる。そしてその外れ者の文化に引き寄せられた外れ者たちが日本全国から集まって、東京は一層どうしようもない人間に優しくなる。

こういった性質は、多かれ少なかれどこの都市にも見られるのかもしれないが、東京の巨大さは他の都市の追随を許さず、京阪神大都市圏ですら東京とその周縁ほどの広がりを持っていない。

例えば「東京」と名のつく曲の多さには東京の都市としての巨大さが現れていて、ここ20年ほどで見ても、私の狭い観測範囲でもくるりや銀杏BOYZやきのこ帝国が「東京」という曲を歌っている。その何れの曲も、東京以外の都市では成立し得ない種類の曲だと思う。椎名林檎もそうで、彼女が東京以外の都市を舞台に曲を書くことは、(生まれの地である福岡を除いては)できないだろう。

この頃の東京では、2年後にオリンピックがあるせいか、どんどん再開発が進んでいる。東京はスクラップ・アンド・ビルドで成長してきた都市だから、その流れ自体は否定しないが、そのせいでまた厭味のように洗練された街がたくさんできたら嫌だなと思う。ああいったイベントは社会のメインストリームの支持を受けて、外れ者を疎外してしまう。

お上は何かあるとすぐ洗練された街並みをつくろうとするが、文化は荘厳なオフィスビルや巨大なららぽーとや過度に清潔な公園からは生まれてこなくて、猥雑で薄ぼけた街角から生まれてくるということを、もっと理解したほうがいいと個人的な愚痴。

東京はこれからも莫大な人口と、アジア的な猥雑さが失われない限りは、どうしようもなさを許容できる偉大な都市として世界に名を知らしめるだろうし、それが失われたときには、東京は面白みのない巨大なコンクリートの集合となるだろう。

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