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読書記録:五来重『日本人の死生観』

民俗学の本を読もうということで、今回は五来重『日本人の死生観』(講談社学術文庫)を手に取った。著者は日本の仏教を民俗学的な手法で調査・分析した民俗学者。この本では縄文時代から戦後に至るまでの日本人の庶民の死に対する向き合い方、弔い方を詳しく解説している。

死とそれに伴う儀式は宗教から切り離せないだろう。例えば現在の日本では火葬が一般的であるが、キリスト教やイスラム教では死後の復活が信じられているから土葬でなければならない。私自身は特定の宗教に帰依していないけれども、死んだら火葬されることに抵抗はないし、当然のようにそうされると想像していた。そういう意味では『死後の復活』は信じていないのかもしれない。日本人は無宗教と言われているけれども、自分や家族の葬式をどうしたいか?という問いに対して仏式を選ぶならば、無意識に仏教における死の捉え方に賛同しているのだろう。

しかし日本では仏教の考え方に、古来からの死者の弔い方を融合させていて、それが今でも形式として残っているという著者の解説は興味深く、納得できるものであった。

著者によれば、古代より、死者はまず怨霊になるという。それを鎮めるために殯(もがり)をして、悪い霊から良い霊に変えてから埋葬していた。殯とは遺体を木材や石材で囲いをした場所に置いて、風葬のように腐敗や白骨化を促すこと。期間は地域や時代によって異なるが、古墳に入るような貴族だと3年にも及んだそうな。そうして復活しないこと、死んだことを確認する。封じられた囲いの中で霊の恨みや生への執着は和らぎ、浄化され、残した家族の幸せを願うような恩寵的な霊へと変化する。

火葬の普及とともに殯の風習は廃れていくが、霊は鎮めるべき存在という考え方は、現代にもかすかに残っている。盆踊りや各地に残る神楽がそれで、特に足を踏み鳴らすような踊りは、霊魂が外(=生きている者の世界)に出てこないように封じるという殯と同じような意味を持つ。また墓の形や塔婆、通夜といった風習もその流れを汲むという。

いや、無意識下や根本的な価値観にはまだしっかりと残っているかもしれない。先日、父が墓の塔婆が多すぎるので処分するのに、寺に持っていくのが面倒で庭に埋めたと話していた。父の中では寺でお焚き上げしてもらうことと、庭に埋めることが同じ『効果』を持つという感覚なのだろう。私にとっても違和感はない。火による浄化と、土に埋めることによる浄化。それが同じ力を持つ。自分の価値観として初めて意識したが、なるほど考えてみれば不思議だ。

古代の価値観を受け継いでいる、というと仰々しいかんじもするけれど、きっと日常の何気ない行動にも潜んでいるのだろう。アニミズム、神道、仏教、儒教、色々な宗教が混ざり合って出来ている私。そしてそのどれも選び取らないまま、宙ぶらりんな私。

昨年秋に祖父が亡くなって以来、死や仏教的なことについて考えることが多くなり、そもそも弔うということはどのような意味を持つのかを俯瞰してみたかった。この本によって、自分のなかにあった言語化できないモヤっとした感覚のいくつかが説明できるようになったし、私は日本人的な価値観を持っているというアイデンティティの自覚を得た。とても意味のある読書になったと思う。著者は山への信仰など、私の興味のある本を多く出しているようなので、他にも読んでみようと思っている。



〈以下、雑記〉

さて、ゴールデンウィークが終わって1週間。旅行の内容をまとめようかと思ったものの、手が付けられていません。このまま書かない気もするので、写真だけ掲載させてください。

宇都宮の大谷にある平和観音


那須どうぶつ王国にて
大好きなワオキツネザルを撮りまくった


野球殿堂博物館にて
トロフィーは全国を巡回中

私の両親との久しぶりの旅行で、栃木の北部を巡ってきました。ホテルのブュッフェで意外な好物を知ったり、思いがけない昔話に驚いたり、なかなかに刺激的でした(笑)

美味しいものもたくさん食べました。前回東京に行ったときに行列がすごすぎて食べられなかったお寿司もリベンジ。たらふく食べて大満足でした。

そんなこんなで楽しんだゴールデンウィークが終わり日常が戻ってきたわけですが、相変わらず体調は芳しくなく、この土日は休息に当てました。今日から大相撲が始まるので、パワーをもらって何とか明日からも頑張ろうと思います。

今回も読んでいただきありがとうございました!

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