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法然上人の「人生はテニスだ」

平安時代末期は、全国で天災や飢饉が続き、律令政治は形骸化し、源平の争乱や武士の台頭が起こった時代で、世の中が大混乱の時期でした。そのような時代を背景に、日本史の教科書で習う、鎌倉新仏教が登場します。すなわち、浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗です。

これら6宗のうち、浄土宗の開祖の法然と、臨済宗の開祖の栄西は、岡山県出身です。編集工学者の松岡正剛は、変革期の時代に、日本の希望は辺境の地からやって来ると言います。彼の言う辺境とは、中央(当時は奈良、京都)から遠く離れているだけでなく、独自の文化を培えて、革新的な思想を生み出す人物が出てくる地域です。

岡山県はかつて、吉備王朝が栄え、文化度が高い地域でした。ですから、平安時代末期から鎌倉時代にかけての変革期に、重要な二人の開祖を輩出したのは、偶然ではなかったわけです。しかも、法然は、6人の開祖の先頭を行った人です。

法然は、今の岡山県久米郡久米南町出身で、生家跡には、鎌倉時代に「誕生寺」が建立され、浄土宗の聖地となっています。13歳の少年・勢至丸(せいしまる)、のちの法然は、故郷岡山の地を離れ、当時、知の最高峰であった比叡山延暦寺に移り、膨大な経典を読み込み、学問の王道を学びます。

松岡によれば、それまでの日本仏教は「悟り」の教えであり、法然は、「救い」の欠如に問題意識をもったのだろうということです。その時代は、戦乱と飢餓が全国に拡がっており、京都だけでも何万人という餓死者が出ていました。法然が望んだのは、そのような目の前の戸惑う民衆を直ちに救済することで、それには、既存の「悟り」の教えでは間に合わない状況でした。

13歳の時に入山した少年は、およそ30年後、比叡山を後にして、幅広く各地に保管された経典を読み込みます。比叡山での学びとそれらを合わせて、およそ八万四千の仏教の教えの中から、一方を選び、他方を捨てるという取捨選択ではなくて、分類し、同類を重ね合わせてくくり、革新的な部分の濃縮を進めたと言うことです(その過程は、松岡の著書「法然の編集力」**に詳しく述べられています)。

そうして最終的に選ばれたのが、阿弥陀仏の誓願、「社会階層や職業はむろんのこと、男女の性別も問わずに極楽往生できる道を為す」で、さらには「悪人も往生する」とするものでした。そして成立したのが、「南無阿弥陀仏」すなわち、「(阿弥陀仏さま、頼みます)」と称えれば、誰でも極楽往生できるとするシンプルな教えでした。

日本でも最近まで、あからさまな女性への就職や昇進の差別がありました。ですから、800年前の中世に男女平等を称えたことは、世界的にみても、驚くべき革新性でした。悪人も、悔い改めれば許されるとする考えは、今でも革新的すぎて、まだまだ、世間一般には抵抗感があるかもしれません。

法然の教えは、一見、非常に寛容に見えるのですが、実は、厳しい内容です。それまでどのように生きてこようが、過去がどうであろうが、差し引きゼロになる(平等になる)のですが、それは、過去の「負債」が免除される一方で、「貯金」も無くなるということです。そして、今がどうであるかだけが問われます。ふと、そのような厳しさをもった競技があるのに気が付きました。

それはテニスです。サッカーやバスケットボールは、試合が前半と後半に分かれていますが、勝負は総得点で争われます。試合後半の終了間際に大量リードされていたら、もはや逆転はあり得ません。他方、バレーボールや卓球は、先に何セット奪取したかで勝負が争われます。前のセットで、得点が大きく負け越していても、次のセットでは、「0-0」から仕切り直されます。テニスに至っては、ポイント、ゲーム、セットが、多重に仕切り直されます。ですから、第一セットを0-6の大差で負けていて、第二セットも0−5で、マッチポイントまで追い詰められていても、テニスの場合は、そこから仕切り直しの度に勝って行くことで、形勢逆転が可能になります。反対に、それまで優勢だったことは、頼みにならないのです。

当院の石上(いしがみ)看護師長は、学生時代にテニス部のキャプテンだったのですが、テニスの試合は、最初に勝っていて、いけそうだと思ったら、大抵、負けてしまうと語っていました。仕切り直され、新しくされて、ほっとしても、油断してはいけませんよ。試合(人生)は、最後の瞬間まで判りませんよ。法然上人は、そんなことも、言っているような気がします。

*表題の画像は、童子に見送られて岡山を発つ勢至丸の像(誕生寺境内)である。

**松岡正剛・著:法然の編集力. NHK出版. 2011

(2019年5月)


追伸:法然上人の生誕の地「誕生寺」に行ってきました

浄土宗の開祖、法然上人は、平安時代末期の1133年、今の岡山県久米郡久米南町に生まれています。生誕の旧邸は、鎌倉時代の1193年に誕生寺となり、浄土宗の聖地になっています。連休中の2019年5月1日、誕生寺に行ってきました。誕生寺への最寄りの駅は、JR津山線の誕生寺駅です。JR岡山駅から、ディーゼル・カーに乗って約1時間で到着します。駅舎があるだけの、無人駅なのですが、ホームに降り立つと満開の八重桜が迎えてくれました。

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道案内の標識に従って駅前の住宅街を進むと、やがてのどかな田園が拡がってきます。ちょうど田植え前で、田んぼにはレンゲが咲き誇っていました。農家の庭に、めずらしいシロヤマブキが咲いていて、その純白の花に心を清められ、巡礼への心持ちが整います。10分ほど歩くと、誕生寺の山門が見えてきます。

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山門をくぐると、樹齢850年のイチョウの巨樹が迎えてくれます。案内板によれば、若き日の法然上人が、この地を離れて比叡山へ向かうときに、地面に刺したイチョウの枝が根付いたものだとの言い伝えがあるそうです。

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境内の最も奥まった聖域に、法然上人の産湯の井戸があり、参拝しました。

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宝物館に立ち寄ると、教科書に出てくるような貴重な寺宝が展示され、誕生寺の歴史が解説してありました。そこには、源氏の武将、熊谷直実が誕生寺を建立し、初代の住職となったことが記されていました。

熊谷直実(くまがいなおざね)という名には、思い当たることがありました。筆者が中学生の時に古文の授業で習った「平家物語・敦盛の最後」の中で、平敦盛を討った武将です。敦盛は、平家の大将、平清盛の甥にあたります。17歳の美しい若武者で、横笛の名手でした。その身ごしらえは、絹の純白の生地に、白糸で鶴の刺繍がしてある装束をまとった格式高い甲冑姿だったという記述を覚えています。それは、どれほど美しかったか・・想像もつきません。

源平の一ノ谷の戦いの最中、直実は、惜しみながらも、状況が許さず、涙ながらに敦盛の首を討ち取ります。その後、直実は栄達を望まず、敦盛を弔うために仏門に入った、というところで授業が終わったのを思い起こしました。

その後、直実は、法然上人に帰依し、師である法然上人の命を奉じて、上人誕生の旧宅を寺院に改めたのでした。

それは、図らずも、45年前の自分に再会し、ひとつの決着がついた瞬間でした。

多重世界の影は、日常に突然降臨してきます。



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