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慶應大学講義『都市型ポップス概論』11【YMOとサザンオールスターズ】 (こたにな々)

●文学部 久保田万太郎記念講座【現代芸術 Ⅰ】

『都市型ポップス概論』 第十一回目

----------------2018.06.29 慶應義塾大学 三田キャンパス

講師:藤井丈司 (音楽プロデューサー) ・ 牧村憲一 (音楽プロデューサー)

−1979年は変革が起こった時代だった...

村上春樹 1979年 『風の歌を聴け』 で群像新人文学賞を受賞しデビュー。

1949年生まれ 京都生まれ、兵庫県神戸育ち 早稲田大学入学と共に上京

はっぴいえんどの元ドラマーであり作詞家の 松本隆 もまた1949年生まれであり、松本隆は東京で生まれ、現在は住居を京都と神戸に移している。同じ世代の二人が時代は異なるが、まるで入れ替わるように西から東へ、東から西と移動。それを結んでいるのは東京・京都・神戸という三都市であった

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村上春樹と同じ時代に注目された小説家である ”村上龍” との1981年の対談の中で村上春樹はこう言っている。

「恥を知っている文章、志のある文章、少し自虐、自嘲気味であっても、心が外に向けて開かれている文章」  が重要。

この ”文章” の部分を ”音楽” に変えると →この講義の1960年代後半から今日に至るまで何度となくした話と重なり合ってくる。

「恥を知っている ”音楽”、志のある ”音楽”、少し自虐、自嘲気味であっても、心が外に向けて開かれている ”音楽”」

モノを作っていく・本を作っていく・文章を作っていく・音楽を作っていく、というある種の文化に対して対面する時の心構えとも言える。

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春樹文学に欠かせない ”音楽” の引用-

重要な音楽が必ず小説の中に出てくる...

”この音楽を使う時にはこういう意図がある” ”この音楽があると次のシーンがこうなる” というように春樹文学における音楽論がある。

※先日発売された『村上春樹の100曲』より。 慶應大法学部教授である大和田俊之氏も執筆。

●村上春樹によく引用されるビーチボーイズ

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=7oRb9-mypxg

ビーチボーイズの60年代70年代のヒットソングはサーフィン・車・女の子を主題にした歌詞が多く、音楽性は高かったが歌詞の内容はあまり無かった

日本の洋楽ビジネス界では ”ビートルズ”  ”ビーチボーイズ”  ”ビージーズ” というバンド名にBが付くグループを3つ集め、世界のロック・ポップスを引っ張っている三大バンドとして ”3B” と名付けた。

そして、”もうひとつの3B” として、”ビートルズ” ”ビーチボーイズ” 加えて ”ボブ・ディラン” があった。

ボブ・ディランがエレキギターを取り入れたことは、ビートルズからの影響で、ビートルズでは特にジョン・レノンがディランから歌詞の影響を受けたと言われている。

一方でビーチボーイズの音楽のクオリティを評価したのはビートルズだった。お互いに海を越えライバル関係となった。

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●村上春樹はジャズ喫茶のオーナーであった事からジャズの引用も多い

参照リンク(音声のみ):https://www.youtube.com/watch?v=GVqY1HwX78E

ジャズ好きでジャズの引用も多いが、クラシックにもまた精通している。村上春樹の本は文章を読んでいる裏で ”音楽が鳴ってくる”。日本の中でこれだけベストセラー作家になった意味合いというのは、この ”音楽性” というのも無視出来ない。

松本隆や同じく素晴らしい詞を書く小沢健二が凄い量の本を読む文学少年であったように、村上春樹もまた両親が国語教師であり、沢山の古典を読まされる環境にあった。

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1978年にデビューし翌年『TECHNOPOLIS』が大ヒットしたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)

1980年、FUJI FILM「FUJI CASSETTE」のCMで『TECHNOPOLIS』が起用され出演も果たし大ヒット。

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=lmPY3SyGixk

TVメディアが大手芸能プロダクションと大手レコード会社との連携にあった中で、全く違うベクトルでTV進出出来る方法が 

”コマーシャル・ソング” だった−。

最初は ”製品名の連呼” が主流であったが、クライアントは”企業イメージ” にも力を入れ始めた。

YMOは最初はジャズ系のフュージョンとされたグループであったが、予想しない出来事が起こり、結果としてテクノポップ・グループとして認知された

当時ツアーメンバーだった渡辺香津美(ギタリスト)は、日本コロムビアレコードと専属契約があった。そのためライブアルバムを出す際に渡辺香津美のパートはやむなくカットされ、代わりに坂本龍一のシンセサイザーが追加録音された。その経緯があって、テクノポップ・グループとしてYMOは確立された。

余談だが『TECHNOPOLIS』で使用されている機械音声(ボコーダー)は、元々は戦争時に会話の盗聴を防ぐ用途で使われていた。シンセサイザーもテープレコーダーもソナーも音楽に関わる機器はもともとを言えば軍事で開発された。

”YMOは機械音声で歌えるグループとなった”

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”サザンオールスターズ” は元々EAST WESTというヤマハが開催していたコンテストの出身者で、当時のビクターのディレクターに発見され、大手レコード会社に引き抜かれる形でデビューし世に出る事になった。芸能界がサザンに付く事によって、新人であるにも関わらず所属プロダクションの意向で、TVのブッキングが凄まじい事となった。

これまで芸能界と非芸能界と分かれていた中で、非芸能界に属する音楽に今度は”芸能界”の方から近づいた現象だった。

(サザンのデビュー曲『勝手にシンドバッド』は最初はシングル候補ではなかったがサザン側の強い要望で実現。見事に大ヒット曲となった)

YMOとサザンは「恥を知っている ”音楽”、志のある ”音楽”、少し自虐、自嘲気味であっても、心が外に向けて開かれている ”音楽”」だった。

そして、YMOのボコーダーやサザンの桑田佳祐の声を含め、

1979年は声の時代となった-------------------

”声の時代” 

その始まりは、あえて言えばだが ”カタカナ風の歌い方” かもしれない。

●『ダイナ』榎本健一

この曲はルイ・アームストロングの楽曲『ダイナ』に日本語の歌詞を勝手に乗せて歌ったもの。

参照リンク(音源のみ):https://www.youtube.com/watch?v=AaLNCAArmgo

●原曲 『ダイナ』ルイ・アームストロング

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=hqyeWel4D1s

他にもこの『ダイナ』を日本語詞で歌いヒットさせた人がいた。榎本健一のものとはまた歌詞が全く違う。

●『ダイナ』ディック・ミネ

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=EACMw8WxsPI

1970年以降に、はっぴいえんどが試行した事を、その数十年前から試行錯誤していたのだった。

海外の曲にどうリズムを乗せるか、どうニュアンスを伝えるかの声の出し方でもある。いかに日本語を英語的な雰囲気で歌うか、という事を歌い方や歌詞で実験していた。(藤井)

サザンの話に戻ると『勝手にシンドバッド』は当初もう少し遅いテンポで演っていたらしく、レコーディングの段階で速くなったのは、桑田佳祐の中に上記のカタカナ風の歌い方のような、彼の生まれていない時代のある種の記憶があったのではないか、という考察が出来る。

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●『恋のバカンス』  ある世代共通の音楽体験の中に眠っていたリズム歌謡。 

逆に海外に輸出する事が出来た代表曲。特にヨーロッパ・イタリア・カンツォーネでも本家歌手によって歌われた成功例だ。

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=UtAcZG0z-j8

ラジオ企画で生まれたDr山下達郎・G桑田佳祐・Gダディ竹千代・B世良公則・Key竹内まりや からなるバンド『竹野屋セントラルヒーティング』によるカバー。

参照リンク(音源のみ):https://www.youtube.com/watch?v=V2ITdSj5Z7k


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藤井丈司先生の音楽講座―(以下)

●ポップスというのは音楽と歌が合わさって出来ているもの

”音楽” とは、リズム・メロディー・ハーモニー・サウンドの4つで構成されている。それとは別に ”歌” というのは、声・言葉・歌い方という3つの要素で出来ている。この ”音楽” ”歌” が組合わさると ”ポップス” になると考えている。

そして 『都市型ポップス』 というのは、この7つの要素がいっぺんに一新されたものである。

その中でも1971年のはっぴいえんど、1973年の荒井由実はこの7つの要素を新しくガラッと変えた。しかしセールスとしては当時は振るわなかった。

それがだんだん形になってきたのが1978年のサザンオールスターズ、1979年のYMOだった。

”一新と共に大ヒットさせた” ”とても大きなビジネスとなった” ここが70年代前半と違う所にある。

はっぴいえんど・YMO、そしてユーミンの1stアルバムに関わっている 細野晴臣”という人物が色々な人を巻き込んで日本のポップスに新しい革新・イノベーションを巻き起こして来た。

そして、村井邦彦・松本隆・松任谷正隆をはじめとした慶應出身者が活躍・冒険をして、サウンドを書き換えてきたという要素があった。

それに対して、サザンの桑田佳祐は茅ヶ崎出身の普通の町の子どもであり、そこが前述の登場人物とは大きく違う所だった。

ハイカルチャーから生まれてきた新しい日本のロックに対して、サザンは普通に茅ヶ崎で育った桑田佳祐の中から生まれた音楽だったのだ。

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●『勝手にシンドバッド』楽曲解説―

まず早口で歌い方にすごくインパクトがあるが、そもそも早口で声がひっくり返る歌い方というのはそれまではポップスの中にはなく、50年代のロックンロールの中で使われていた手法だった。

楽曲を作るうえで参考になった一つとして、スティービーワンダーの『Another Star』を参考にしたのではないかと言われている。

参照リンク(音源のみ):https://www.youtube.com/watch?v=K9KKBvWTdMQ

デビューシングル『勝手にシンドバッド』では、それまでサザンが持っていたロック路線を選ばすにラテン・ディスコというジャンルを選んだ。

声は ”ロックンロール” で、サウンドは ”ラテンディスコ” 。さらにその中に桑田佳祐は60年代の日本の”歌謡曲”の風景も閉じ込めようとした。メロディーだけではなく歌詞がとても歌謡曲的であり、それまでのはっぴいえんどやユーミン、ニューミュージックの歌詞の中に含まれていた ”少年性” や ”少女性” が重視された歌詞に、桑田佳祐は ”エロス” を持ち込んだ。

”少年性”と”歌謡曲の持つエロス”が合体したものが『勝手にシンドバッド』だった。日本人がずっと聴いてきた大衆性を持つ60年代歌謡の言葉を編み込みながらエロスを歌った。

そこがサザンオールスターズ桑田佳祐の優れた所だった。

それと同時にこれを受け止められるだけの”日本の都市化”が背景にあり、70年代前半は都会的なサウンドのレコードにお金を出せなかった、受け止めきれる人々がまだ少なかった中で、70年代後半には欲しいと思う人の人口が増加した。

サザンにしてもYMOにしても、 ”様々な情報を取り入れ、ひとつの音楽コンテンツにする” というのが彼らのスタイルであった。 これがJーPOPと呼ばれる音楽の根本である。 それが1978年・1979年には出来ていたのだ―


いよいよ次回は80年代に突入!https://note.mu/kurashi_no_nana/n/nd4e2121b91aa


お読み下さってありがとうございました!

本文章は牧村さん及び藤井さんの許可と添削を経て掲載させて頂いています

文:こたにな々 (ライター)  兵庫県出身・東京都在住  https://twitter.com/HiPlease7

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