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ありのまま

今日は人のありのまま(自然体)について考えました。ただこの、人のありのままは意外に難しいと個人的に思っています。

普通に考えれば、周りを気にせずに、かっこつけずに自分以上を求めずに、その悩みも思いもある程度さらけだし身近な存在としてあることがありのままのように思えます。私も実際にそうあることに親近感がわきます。

ただ一方で思うのは、素顔ではなく、お化粧してクールにみせるのもありのまま。自分のプライベートはあまり見せたくない人、理想を語る人。物静かな人。高みを目指そうとする人。等々それはそれでありのままだと思います。

ありのまま。を仮にロックという言葉に置き換えるなら、またギターを大きな音でかきならさずとも静かな音色でロックしている人もいるでしょう。すべて私にはありのままに感じます。

深く考え出すと、本当の自然体は花鳥風月、自然以外ないのでは?などと思ってしまいます。

話は少しそれますが歳をとるにつれて良いも悪いも含めて許容範囲が広くなります。言い換えると相手に合わせる要素が多くなります。

多分それが大人になるということなのかもしれませんが。

私は音楽を投稿しているので音楽を中心に話しますが20代の頃の私は聴く音楽なんてそれこそ自意識過剰な、その審美眼で、他でも聴いたようなことのあるような音楽に対しては内心、その尖ったナイフでぶった斬っていました。今、そのナイフは錆びついているのかもしれませんが、かなり音楽を本気で志している人、すでに活躍されている方のそれにはいまだに少しは内心では厳しい目をむけているのかもしれません。

ただそれが歳を重ねると不思議なもので今まで耳を傾けなかった音楽が少しずつ自然と受け入れられるようになります。それが作られた商業的な背景やその音楽家の人間力などバックグラウンドを知ると自分の数少ない音楽以外での経験等と重ねて少しずつは入ってくるようになりました。

私は今、音楽を気持ちの上では、趣味ではなく本気で取り組んでいます。ただこの許容範囲が広がることは音楽を作ることに対しては果たしてよいことなのかな、とふと思います。私は自分の音楽を多くの人に届けたいと思っています。そのため作り手としてはこの許容範囲を広げて相手(聴いてもらう人)に合わせる必要があります。

ただ相手(聴き手)に合わせすぎると自分はなくなってしまうし、自分だけをうちだすと果たして。。と逡巡しています。そこでどうするかというと、しっかりとしたポジションをとらず中庸な表現をとろうとするのです。

例えば、先日、私は好きな映画を10個ほど紹介しました。確かにすべて本当に好きで印象に残る映画です。ただ今思うと10個を紹介したことも中庸な表現だったのかもしれません。

そこでただ一つだけ選べというのならば「ICHI」という映画を選びます。

理由を明快に書くならば、この映画には悲しみがしっかりと描かれているからです。

以前私は音楽サウンドも含め表現が少しずつ軽くなっていると書いたことがあります。それは言葉であえて言い換えるのならば今、求められる表現が「悲しみ」の要素が少なくなっていると言い換えることもできるかもしれません。

確かに音を楽しむ音楽に「悲しみ」は必要ないのかもしれません。ただ私はどうしても「悲しみ」という要素に惹かれ、作ろうとする音楽にその悲しみの要素を入れようとしています。

そして聴いてもらうためにその要素を薄めてしまうのはどこか、ありのままではないように思えます。しかし聴いてもらうためには何かしらの変化を必要とすることは自分でもわかっています。そこで迷っているのです。

今日はなんとなくそんなことを思いました。

素直に言えば、私はyou tubeやspotify の登録をしていただきたく、この記事も書いています。

このような絶賛迷い中の私ですが、チャンネル登録応援お願いします🙏

本日は以上です。ありがとうございました。










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