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心の中のジュヴナイルを取り戻したかっただけなんだろうか

(挿絵イラスト 千年 迦楼羅)

これまで棕櫚に短編を四作書いてきたが、結果的にどの作品にも自分が若く未熟だった頃の体験が色濃く反映されているように思う。最初から意図しているわけではないものの、出来上がってみるとどうしてもジュヴナイル小説的な要素がにじみ出てしまう。別に嫌ではないのだが、成人してから二十年以上も経っているのに、作品に無意識にそういうところが出てしまうというのも少々気恥ずかしいものがある。勝手ににじみ出てしまうものなので仕方がないというか、まあ、おそらく自分の書きたいことがそういう事なのだろうから、出尽くすまでは自由に書いてみようと思ってはいるが。

昨年発行された棕櫚第六号に掲載された『階段』という作品をすこしだけ紹介させていただきたい。

家に帰ったら、部屋のど真ん中に「階段」が生えていた。

という書き出しで始まるこの短編は、文字通りそういう状況を書いたものである。

小学生の長男がある日帰宅したら、居間のど真ん中に突然階段が造られていた。それは天井でどん詰まりになっている意味のわからない階段だった。誰が何の目的で造ったものなのか家族の誰も知らないと言い張る。やがて家族は、その階段をそれぞれの好きなように活用しはじめる。父親は階段の下の小さなスペースを我が部屋のように占有し、母親は花を置き、姉は漫画本の棚として使い始めた。しかし、長男は…

というあらすじ。

以前noteで書いたとおり僕はほとんどプロットを考えてから書かないので、この作品は本当に最初の場面だけが設定としてあって、そこから映像が枝葉のように広がっていった作品である。書き進めているうちにそれぞれの登場人物が思いもよらない行動に出たりするので、最後まで自分で楽しみながら書かせてもらった。気に入っている。

自分で言うのもどうかと思うが僕は子供の頃はいわゆる優等生で、あまり大人たちを困らせるような事をしない大人しい子供だったと記憶している。それもあって自分で自分の限界をすぐに決めたり、感情をストレートに出さなかったり、やりたい事をやりたいとはっきり言えないまま大人になってしまった。二十代、三十代となるにつれてその縛りが少しずつ解けていって現在に至るのだが、今になって思えばあの頃はなんであんなに自分で自分を縛っていたのだろうかと不思議に思う。出来上がったこの作品を見ると、そういう思いが脳内の引き出しからズルっと出てきたのかもしれない。

この小説には挿絵作家の千年迦楼羅さんが力強い挿絵を提供してくれました。

棕櫚第六号、マルカフェ文藝社通販サイトで販売中です。もし興味を持っていただいた方がいたら是非読んでいただきたいです。第七号の予約販売も始まっていますので、宜しければあわせて是非。


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