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詩と日記












パフェの断面
私の人生












タバコの煙が
宙に舞って ワルツを踊る













見えない傷が
膿んで抉れて
私を無関心にさせる













マッチングアプリは密やかな自傷行為
















日記


双極性障害(躁うつ病)になって、不安定な日々が続いている。「今は鬱だな」「躁だな」と、自分の状況を冷静に把握しようとしている自分も、実は全てが間違いで、自分は健康なのではないかという疑い。勿論そんなことあるわけがない。ほとぼりが冷めて、心が落ち着くと「あんな精神状態が健康なわけがあるか!」と自分自身に突っ込みたくなる。健康なわけがない。
自分自身に酷く疲れ果てている。いつか治る、と頭の中では分かっていても見えない不安で押しつぶされそうだ。早く楽になりたい、いなくなりたい、とふとした時に思う。天井を見上げてぼーっとしている時、煙草を吸っている時、信号待ちをしている時、電車を待っている時。私は一体何をしているんだろう?と。
人との関わりが酷く億劫になった。LINEの通知をオフにするようになって、固定ピンにしてずっとずっと上の方にとめていた好きな人とのトークも、気づけば下の方に下がっていった。
好きな人のことが嫌いになったわけじゃない、好きという気持ちはまだあると思う。
それ以前に人に期待するのも、振り回されるのも懲り懲りだ、と思う。当たり前ではあるけれど、私はどちらかといえば人に期待、依存してしまう気質がありそのせいで何度も苦しい思いをした。薔薇の棘みたいなものが、私の心を縛り上げて、いつもちくちくと私の心を刺していた。限界が来たのかもしれない。
正直、うつ病と診断を受けた時もいまいち実感がわかず、その原因(外的要因)に関しては以前精神科に通っていた頃より良くなっていると思っていた。おそらく蓄積されていたものが、いま、スパーンと弾けたのかなあなんて思う。ために貯めた結果、自分でも気づかず内に身体に現れてしまったのだろう。生き地獄で、早くいなくなりたいと思うが、自分で命を経つ勇気は無いのだ。矛盾していると思う。でもそのギャップに苦しめられ、私のように生き地獄の中毎日を生きている人達もこの世には沢山いるのだろうなと思うとやるせない気持ちになる。死ぬ事が正しいとか、そういうことを言っているのではなくて。『死にたいけど死ねない』という矛盾から来る悔しさと、罪悪感。
"死にたいのに実行に移すことが出来ない"という悔しさ。そう思うことへの罪悪感。
「死にたいと言っているやつに限って死なない」とはよく聞くが、本当にそうだろうか。当人の苦しみを理解出来ていない人間たちが言っては良い言葉ではないと思う。適切な言葉など見つからないし、わざわざ『適切』な言葉なんて探す必要は無い。無用だ。
この世の全ての事柄を言語化して、その中から適切な言葉を選ばなくたっていい時もある。もし私の大切な友人たちが、そんな中で苦しめられている時があったとして、私がそれに気づく事ができたら、少しでも寄り添ってそばにいてあげたいなあ。

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