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「ポンコツ」と呼んだひと

「M美と付き合ってるなら、殺す」


そんな物騒な言葉が、わたしたちの始まりでした。

大学二年生のとき、専攻で出会った、
わたしの、大好きで、大切で、

一生付き合っていきたい男友達の話をします。

わたしたちの代は、他の代に比べて、異色に派手だったのですが、
その代の男の子の中で、わたしの愛すべき男友達
(以下黄色くんと呼びます)は
ダントツにポンコツです。

タバコは吸うわ、講義は来ないわ、
宿題やってないわ、ヘラヘラしているわ…

だから、初めての同期懇親会のとき、
わたしの一年生からの友人であるM実と付き合っているのかもしれない!
と話題に登ったとき、
「殺す」
だなんて大層物騒な言葉を発してしまったのです。
(酔っていたしね。ごめん、黄色くん)

そんな物騒な言葉から始まったからか、
わたしたちが真に仲良くなったのは、その二年後でした。

「ポンコツだな」が逆に救ってくれた

黄色くんと仲良くなった経緯を話す上で、避けて通れないのが、
大学二年生の三月、大学から届いた成績表について。
中を開くと、右上に、「原級」と書かれていました。
わたしの学部は、語学を1単位でも落とすと留年なのですが、
フランス語を落としてしまったのです。

もう絶望。
失意のもと、フランス語の先生に、フランス語でメールを書きました。
なんとかならないものかと。
当然ですが、フランス語のメールなど意味をなさず、
単純にそもそもお前は出席日数が足りないから原級だと言い渡されました。

国立の小・中・高に通い、
ストレートで偏差値の比較的高い大学へ進み、、、

と恥ずかしながら順調な人生を歩んできたわたし。
大学受験のとき、本当は別の大学を目指していたのですが、
浪人しても結局受からずに現役のときと同じ選択肢になったとき、
わたしは絶対に浪人したこと後悔する、と考えて、
浪人の選択肢をとりませんでした。

でも、結果留年するんなら、浪人したほうがよかった。
こんなの、親にも誰にも言えないわ、と思い、
実はしばらく引きこもりました。

最悪の気分のまま4月がきて、引きこもり生活は春休みとともに終了。
また大学に通いはじめました。
だけど、留年したことが、本当に悔しくて認めたくなくて、
同じ専攻の友人や新しくできた友人以外には言えずにいる日々が続きました。

月日が経って、留年したことを友人に言えるようになっても、
留年したことは、人生の負い目でしかなく、
わたしはやる気を失っていました。

そんなときに、黄色くんが言いました。

「はちはポンコツ仲間だかんな。サイコーなマイメンだよ」

これまでの人生を遡っても、
わたしを「ポンコツ」と言わしめた人はいません。
おそらく今後の人生でも。
(そもそも人のことポンコツって普通言えない)

それだけにわたしは、どちらかと言うと、
これまでの人生で、しっかり者、とか、それなりに勉強できる、
だとか思われていて、
なんとかしてみんなの期待に応えなければと必死でした。

でも、初めて「ポンコツ」だと言われて、
「しっかり者」や「勉強できる人」という
レッテルを破ることができました。

「あ、わたし、ポンコツでいいんだ。好きに生きて、いいんだ。」

黄色くんは、呪いをといてくれたのです。

「はち」の秘密

「ポンコツ仲間」と言われてからまた時は流れ、
専攻の同期のみんなが卒業する頃。
黄色くんは、大手印刷会社に内定していたにも拘らず、
留年してしまいました。

黄色くんとわたしが、加速度的に仲良くなったのは、
その頃からです。
これまではゼミも同期と一緒にいればよかったけれど、
卒業してしまえば下の代と話さなくてはいけません。
正直後輩とそこまで仲良くなかったわたしにとって、
黄色くんの留年は、救いでした。

わたしにとって一回目の、黄色くんにとって二回目の四年生のとき、
わたしたちはほとんど毎日一緒にいました。

就活も一緒にしました。
就活情報も沢山教えてもらいました。
(黄色くんが教えてくれるESの締切は、
ことごとく教えてもらった日の翌日でした)
行きたい会社のラップも一緒に考えました。
沢山お酒を飲みました。
隣のテーブルの謎の外国人と仲良くなって、
その人達とともにカラオケに行ったこともありました。
(実は記憶から抜け落ちていたのですが、
カメラロールを遡ったらありました)
就活中、黄色くんが恋に落ちました。
わたしはそれを、隣で見守っていました。
わたしが入院したときも、お見舞いにきて元気づけてくれました。
謎に深夜からhigh school musicalの
音楽のデュエットを真剣に練習したこともありました。

数え上げればキリがありません。
わたしの大学四年生は、黄色くんで染められていました。

・・・

ところで、わたしには、コンプレックスがあります。
それはもう、小さいころから、手汗がすごいんです。
ピアノを弾けば手は滑るし、
テストのときは、解答用紙がへにゃへにゃになります。
最悪なのが手をつなぐとき。

付き合った人はたいていわたしの手汗を面白がってくれるのですが、
手を繋がれるのはいつも少し嫌でした。

黄色くんにも同じコンプレックスがありました。
でも黄色くんは、コンプレックスのままにしなかった。
黄色くんは、口がとても達者です。
就活の面接のときに言っていたことなのですが、
口が達者になったのは中学三年生のときのこと。
手をつなぎたくても、手汗を沢山かいていて、
なかなか手を繋げなかった黄色くんにとって、
口達者になるしかなかったとのこと。

コンプレックスで諦めるのではなく、
別のところを伸ばそうとする前向きさを、
わたしは本当に尊敬しているのです。

そんな黄色くんのポジティブな転換が、
わたしのアカウント名である「はち」という名を付けました。

大学三年生から四年生になるとき、
わたしは当時付き合っていたひとと、
音信不通になっていました。
その彼は同い年だったので、ちょうど就職した頃で、
きっと忙しいんだろうな、と思ってわたしはただただ待っていました。

さすがにその彼が自然消滅を狙っているのだろう、と思える頃にも、
まだわたしが待っていたので、黄色くんはわたしに言いました。

「忠犬ハチ公みたいだな」

その瞬間、自然消滅とも気づかずに待ち続ける痛い女から、
一途な女の子に、わたしは変わったのです。
そしてそう名付けられた途端に、
待っている自分を客観視できるようになり、
その彼と別れることができました。

そのときから、しばらく、「ハチ公」と呼ばれ、
「ハチ公」が次第に変化して「はち」に変わりました。


いつまでも黄色く照らす

こうして黄色くんのことを書きあげると、
なんだかわたしは救われてばかり。

黄色くんが、わたしのことを笑わせてくれたエピソードが多すぎて、顔を思い浮かべるだけで自然に笑みが溢れてきます。

「男女間の友情は成立しない」
とはよく言われますが、
黄色くんとはこの先の人生ずっと大切な友達だと思います。
たとえ、この先仲違いしてしまったとしても、
黄色くんとのこれまでの思い出だけですでに。
どんなに暗い波間でも灯台のように
わたしの人生を照らし続けてくれる確信があるのです。

・・・

でもね。
最後に一つだけ言わせてもらいますと、
LINEでわたしのこと、
「サバの味噌煮」って登録していることだけは許さないよ。


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