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性善説と性悪説

某SNSでの話題を元に、一度だけちょっと深く考察するだけの文章です。
今回は、タイトルのとおり、性善説と性悪説について書きたいと思います。

クルド人のあれや、バイトテロのこれなど、日本特有の「性善説」とやらを基本において社会を回していた結果、足をすくわれ、思わぬ被害を被った、というお話が後を絶ちません。
ただ、今回はそんな話がしたいわけじゃなく。
「性善説」か「性悪説」。
いったい人間とは、どちらを本性として所有しているのか? という、人間の根幹に関わることを書きたいのです。
(実はこの話は、とある私のnoteフォロワーさんとのメールのやりとりが発端となって考えていたことです)

さて。
のっけから、かましてしまいます。
私は、「性善説」も「性悪説」も、どちらも正しくない、と思っております。
どちらも、「惜しくも『正解にかすっている』ものの、芯を外している」
こう思います。

ま、
大上段に構える前に、まずは軽く性善説についておさらいを。

リンク先を簡単にまとめますと、昔の中国の儒学者孟子が、道徳学説として唱えた中にある考え方で、人間は本来「惻隠(そくいん)」「羞悪(しゅうお)」「辞譲(じじょう)」「是非(ぜひ)」という四つの善性を持って生まれており、それらをたゆみなく磨くことで仁、義、礼、智という徳を習得することができる、というものです。

美しい言葉ですね。

この話のキモですが、これが「道徳論」だ、ということです。
人間が生きるべき指針を示すことが目的であるわけです。
ですから、「善性」にこだわることが必要であり、また人々にも理解されやすかった。自分の今の現状と、目指す方向性が分かっていれば、人は真似ぶ(学ぶ)ことができますから。

しかしですね。
おかしいんですよ。

善性にかこまれた生活を送った人ですら、悪に染まることがある。
それはたゆまぬ努力を怠ったからだ、と言えばそれまでですが、明らかに説明不足な状況があまりにも多く発生しすぎてます。
飢餓・貧困・格差・差別・殺生・不義・簒奪・強奪・不遜。
本来善性を持って生まれた人間のしわざとは到底思えない光景が、世界には広がっています。

この発想の逆が、性悪説ですね。
性善説の逆、というものです。
しかしこれですと、世界と比べた日本をまた、説明できないんですよ。
なぜ欧米諸国で性悪説が流行しているかというと、彼らが信仰するキリスト教が性悪説から出発している(アダムが知恵の実を食べたという罪から人間の原罪が発生し、人間の業が決定(楽園追放)された)からでしょう。
ですが、善性を旨とした社会で、とにもかくにもまわってきた事例がある以上、性悪説もまたただのひねくれ者の皮肉である、という気もします。

なぜ、こうも性善説も性悪説も芯を食っていないのか。
どちらも正しそうでありながら、どちらも間違っているっぽいのか。
それはですね。
「定義」があいまいだからですよ。

そもそもの孟子が言い出した性善説。その中の、
「惻隠」(同情心)、「羞悪」(悪を憎む心)、「辞譲」(へりくだる心)、「是非」(正邪の区別ができる心)。
……これら、ほんとに「善」ですか?
同情心の中に、相手を見下す心がまったくないと言えますか?
悪を憎むあまり、人間全て死ねばいいと思ってる人、いますよね?
へりくだるあまり、自虐的になってむしろみっともない人、いますよね?
正邪の区別って、あなたそれまさに、「あなたの感想」ですよね?
きちんと定義してくださいよ、ってなものです。
いや。
逆です。
そもそも、「善」は「定義」ができないのですよ。
なぜか?
それは、この社会において、歴史的に「善」である状況というものが、ころっころ変わってしまうからです。
大人が頑張った幼女を褒めるとき、頭をなでればこれは現代では粛正ロリ神レクイエムとなり、犯罪ですらあります。
高度経済成長時代、噂の刑事トミーとマツ、というドラマがありまして、課長が取り調べの際、甘ったれたことをいう被疑者の女性に張り手を食らわしてましたが、現在ではこれは犯罪です。過去でもですが。少なくとも正義は感じません。
「悪」も同じです。定義できません。
殺人は悪だろ、と、わかりやすいところから定義していって悪の本質をあぶりだそう、という思考方法もありますが、これも行く先はどつぼです。
そもそも悪の権化、最終到達点たる戦争は、もともとは善性から始まってたりするのです。虐殺だって善性から始まってたりするのですよ。ポル・ポトを見よ。(これは、善を間違った、と解釈すると痛い目を見ます。むしろ、善を突き詰めた結果がやばい悪となった、と解するべきです)

お。結論ぽいものが出てきた。
実は、この世は善を突き詰めると醜悪な悪となり、悪を突き詰めると巨悪にもなるが時に善だったりするのです。
言えることは。
善も悪も、定義として「不定」であり「不完全」であり、いわば定義するに値しない不安定な思想である、ということです。

なので。
定義しやすいものをもってくればいい、と私は思いつきました。
そこからは早かった。

性善説も性悪説も、すこうし、間違っていたのです。
人間がまとって生まれてくるのは、「善性」ではなかった、ということです。
ではなにか?

「利己心」です。

己が得をしたい。気持ちよくなりたい。
この気持ちをまとって生まれてくるのが、人間だということです。
わたしはこれを、「性利己説」と、勝手に名付けています。

これが芯を食ってる様子を、これから述べていきます。
赤ん坊が泣きます。これは、「乳が欲しい」とか「おむつが濡れた」とか「寂しい」とか、「親の顔が汚い(こら)」などという、己の欲求を通すために泣くわけです。まぁ、そこまでの知恵はまだないでしょうが、いわば
「不快だー!!」
って泣いてるわけです。
自分の利が通ってないことに対して、憤っているわけです。
利己の最たるものでしょうよ。
そして。
自我が確立していくにつれて、人間の「欲求」は複雑化していきます。
この「欲求」が、善性方向に発揮されれば「性善説」の世界となり。
悪性方向に発揮されれば「性悪説」の世界となります。
いわば、人間初期の感情を「利己心」と捉えれば、その後の発想が善でも悪でも定義できる。ここにこの考え方の妙味があります。

そしてですね。
うまくできてるんですよこの世は。
成長するにつれ、この社会は、「利己的」な人間を、社会に有用な人材とするため、「利他的」であることを請求するのです。
税金。ありますよね。
カネがほしいってのは、利己欲求のけっこうメインな感情ですが、その利己欲求を「少しだけ」「利他として還元してほしいなぁ」ってのが税金なんです。
あと、たとえば行列に並ぶ時。その行列に割って入りたいと願うのが利己で、社会の秩序を守るために列にきちんと並んでくださいね、っていうのが、社会からの利他の請求です。
そもそも、サービスの対価としてお金を払う、ってのが社会の利他要求そのものですよね。
利己の精神を押さえ、社会からの請求に応じて利他の行為を行う。こう説明できてしまいます。
そして、そのやりとりは等価でなければならない。不必要に利他的である必要はない、ってことです。

つまり。
この世の中では、人間は「性利己」で始まり、成長するにつれて社会の要請により「性利他」的であることを、性利己の本心を邪魔しない程度に要求される。
こういうことになるわけです。

そして。
人間の社会がこのように定義できてしまうと。
ある結論が生まれるんですよ。

おそらく。
人間が生きていく上で、どんな社会システムも百パーセント人間を守ることはなく、百パーセントの満足度は絶対保証されないが。
少なくとも一番「ベター」な社会システムとして必要なのは、「自由社会」であり、その自由社会を支える考え方として、「資本主義」が、ベストではないが現状マストベター(そんな言葉はありませんが)だということが、おぼろげながら分かるんです。

ですがまぁ、その辺はちょと、本稿長くなりすぎましたので、またいつか。
今回は、この辺で。

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