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バイトテロ、か

某SNSでの話題を元に、一度だけちょっと深く考察するだけの文章です。
今回は、某SNSではなく、こちら。
noteの、私のフォローしている方のとある記事を読んで、私なりに考えていることを書いていきたいな、と思いました。
いつもは、コメントに意見を書き(その方が返信をもらえるから)、それでよしとするのですが、noteコメントって500字以内なんですよ。
で、おそらくいつもの要領で書いていくとだいたい8,000~10,000字くらいになりそうなので、ご迷惑を考え、自分のnoteでやろ、と思ったわけです。

まず、前提として。
バイトテロ(いちおう「バイト」テロ、としてますが、自分はおでんツンツンや牛丼屋生姜直食い、寿司屋醤油さし舐めなどの客としての行為も含んで語ります)なんてもの、やってほしくないし、やろうと思ってる奴は絶対やめたほうがいい。
これはもう、一番最初に訴えたいことです。まじでやめて。俺の好きな飲食店がこんなことで疲弊して閉店なんてかなわん。×意すらわきます。

ただ。
バイトテロをやるような人たち。彼らがなにを考えてそのような行為に及んだのか。それについてはなんとなく、「思い当たるふし」がある。
そういう、話です。

まず、人にやったらまず一番嫌われる行為からやっていきます。(バイトテロをやるような奴は嫌いなので、心は痛みません)
そう。レッテル張りです。
バイトテロをやるような人間が、いったいいかなる人間像なのか。そこに迫りたいと思います。
私はこれは、だいたい3種類くらいの人間を想定しています。

①俗に言う、「陽キャ集団」……やんちゃで、女子にもてることを至上命題にしてるようなグループの、たとえば8人いたら5、6番目くらいのヒエラルキーに位置する人間

②逆に、友達ができないタイプの陰にこもった人間が、高校デビューのような、環境とともに自分アピールを一新しようとする。そういうことをやりがちな人間の、例えば高校一年夏休み、あたり。

③サイコパス(一般的な意味で、じゃなく、自分に感情がないと信じてるような厨二寄り)人間。

①~③に共通なのは、
「現状自分の置かれた環境における自分の評価に、納得がいっていない」
こと。
そして、
「自分の見聞きした甘い言葉(漫画のヒーローや、2chの発言など)に自分の無限の可能性を信じ、何者かになれるという万能感・全能感で自分を満たしているけれど、その実その自分の可能性を認めない周りの環境(親とか、先生とか、周りの友人とか、クラスの陽キャどもとか)に、常に苛立っている」
こと。

これが、共通項となります。

キーワードは、「厨二期」特有の「万能感」です。

伊集院光氏が発明した「思春期」に代わる、汚泥のような言葉。それが「中二病」です。
そしてその言葉は、2chなどの汚物掲示板を経て、「厨二病」という、より進化した解釈へと発展しました。

ここで、「厨二病」(いまさら語感の定義をしても無駄な描写となりそうなので省きます。意味はだいたい伝わるかと)を発症した人間がどうなるかといいますと。
「青少年には無限の可能性と未来がある→自分にも未来がある→自分は何にでもなれる可能性を秘めている→自分は何者にもなれる→時間をかけずになったことにしちゃえば一番早い」
という思考の短絡をたどる、ということです。

中学校のころに野球部にでも入っていれば、自分と大谷翔平の間にどれほどの差があるのか肌感覚で分かってしまうので、うかつなことは言いません。
ですが、帰宅部だったり○芸部だったりすると、そこの距離感がバグるんですよ。
加えて、そこに距離を感じて謙遜……というか、己を知るというか。
そうやって一歩引いて相手を尊敬してるクラスの人間の態度を見て、例えば
「自分の可能性を自ら捨て、現実を知ったような顔で座っている終わった人間」
だと思いたがるんです。①~③のような人間は。
自分は可能性があることを知ってる。だから発想の飛躍で、自分が思いこめば何にでもなれることを知っている。なのにこいつは知らない、と考える。

行き着く結論は、「俺はこいつよりヒエラルキーが上だ」となります。

ただ。
言葉にてその意図を表明してしまうと、①ならNo.4以上の仲間に、②、③ならクラスの陽キャどもに「身の程を知れ」とボコボコにされることも知っています。最近の子たちはいじめもうまくやるというので、陰湿に暴力以外の方法でやるのかもしれません。今問題はそこじゃないので、適当に流します。

こうなると。
人は鬱屈するのです。
そうであるはずの自分と、環境によって評定されている自分という人間との、点数の差に。
これが、親が甘やかすタイプだと、家で全能感をまるまる発揮し、いわゆる「内弁慶」という形で昇華行動ができるのですが。
家でも学校程度、あるいはそれ以下の評定をされている人間の場合は、もうずっと内に籠もるのです。

困ったことに。
およそ22あたりまで、人間にとって社会とは、学校なのですよ。
学校が社会の縮図、なのではなく。学校が社会そのものなんです。
なので、発想を日本や世界へと飛ばして、自分の存在意義や社会における価値なんかも探って認識してくれればよいのですが、そもそも自分の知らない対社会評価(自分が見てない、学外の人間の評価)こそもろバグってるので、知らない奴の偏差値だいたい俺以下、ということにしちゃいます。自分より上の人間を作る発想などありません。負けたくないですからね。可能性という言葉は魔法なのです。自分をいかようにも表現できてしまいます。

なので、学校での立ち位置が、自分の社会での立ち位置そのものだ、という無言のプレッシャーがかかりはじめます。
具体的に言うと、
もし社会がうちの学校並みだとしたら、学校で中の下の立ち位置の自分は社会でも中の下となるのではないか?
もっと甘甘なやつは、
たとえ社会が大したことなく、この学校が社会の最高クラスだとしても、上から6番目ということは社会でも6番目に過ぎないのではないか(◯したくなりますねこういう奴)?
そんな疑念から始まって、
「俺は事によるとひょっとすると、たいしたことがない人間なのではないか」
という怯えとの戦いが始まるのです。
実際、①は陽キャ集団においては中の下、②はクラスで言ったら平均以下、③だったらお察しです。

そろそろおわかりかと思いますが。

こういう人間のいきつく発想は、
「でかいことをすれば学校という世界は自分を認め、高い地位を与えてくれるはずだ」
という誤解へと帰着するのです。

勉強はやってきてないし、順位を上げる努力はそれこそめんどくさい。
運動は仲間の方が上or得意じゃない。
オタ的知識は披瀝するほど馬鹿にされるだけ。
(それでもファンとしての共通項が友人との間にあれば、魔法の呪文やスタンド名やプリキュアの名前やポケモン言えるかな、とかでマウントの取り合いはできるのですがね)

そういう人間が、手っ取り早くできる「でかいこと」はなにか、といえば。
たとえば、バイトテロなのではないでしょうか。

ここで。
中学高校のころの厨二的万能感のなにが怖いかというと、自分を鬱屈させている世界そのものを基本的に「敵」だと認識していることなんですよ。
バイトテロがなぜ、でかいことなのか。
それにはたぶん、こんな理屈がついているような気がします。

「資本家は労働者を搾取していると社会で習った。しかし大人たちは、そんな社会の身勝手なプロトコールに唯々諾々と従い、それが最上のように良識を守ろうとする。世の身勝手な押しつけを打倒して自らの存在を打ち立てようとするような改革精神、革命精神がない。
俺にはある。なぜなら俺は万能で、なんでもできる存在だからだ。見てろ。俺たちを搾取する大企業に、目にもの見せてくれる!」……。

というようなことを、もう少し頭の悪い文章で考えている。
そんな気がするのです。

それによって、その搾取する側の大企業からどんな制裁が飛んでくるか。それを考えることは彼にとって適切ではありません。
なぜなら、万能たる自分がそのようなことにびびってしまったら、自分がその大資本に、企業に、屈服したことになるからです。

先ほど私は、自分を鬱屈させている世界そのものを彼らは敵と認識していると言いました(が、彼らの仮想「敵」が、
①でいうNo.4以上の陽キャ、
②、③でいうクラスメイト
ではなく、学外の社会にいつの間にかスライドしています)。
このようなスライドが何故起こるかと言いますと、学校の環境そのものを敵とみなしてでかいチャレンジを敢行してしまうと、失敗したときにとことん馬鹿にされ、それこそ自分の全てである「学校という社会」で、その社会的地位を全て失いかねないからです。その点外の社会ならば、仮に失ってもまぁ、学校という環境は残るでしょ、と甘い期待を抱きます。
また、そういった仮想敵に「自分だけが立ち向かえる才能を秘めている」というヒロイズムを満足させることは快感です。もしやって、ばれてしまったら、などという恐怖はあえて見ないふりをします。
自分のヒロイズムの充足がまずなにより先で、その後の代償を考える行為ってのは、その、No.4以上やクラスメイト……自分が見下したいはずの人間かそれ以下に自分が堕すことになってしまう。
だからこそ、彼らは後先を考えないのです。考えないのではなく、怖いということを悟られたくないと思うあまり、自己暗示が進んで、怖いなどと思うことこそ敗北である、という理屈に飛びつくのだと思います。

①の場合のバイトテロは、このほかに、No.4以上の陽キャが5.6の位置の彼に「面白いこと」として強要する、なんてシチュエーションもあるかもしれませんね。
その場合、そのミッションをコンプリートすることで、単純に陽キャ内のヒエラルキーを駆け上がれる妄想にとりつかれるのです。だから、あまり考えないタイプの人間でもやっちゃいます。この場合だと。

これらの「彼」の「覚悟」の行動は、犯した行動が「ばれない」ことでのみ自己の安全が保たれます。
なのに、ネットにあげちゃう。
これはどういうことなのかと申しますと、まだ自己暗示が効いてるのですね。
怖くない。怖いと思うことこそ敗北。
ここから特有の全能感で、
「怖くないと思っていると自己証明できれば俺ホントのヒーロー」
という理屈を捻り出すのです。
なんのことはなく、いわばミッションコンプリートを皆に褒めてほしいわけです。そして、最終目標である、
「学校内での自らのヒエラルキー上昇」
を妄想してほくそ笑むわけです。

以上の思考プロセスを経ると、自分の社会打倒の一手は、なんて美しい正義のジャイアントキリング、誰にも明らかな勇気。いわゆる武勇伝武勇伝武勇デンデンデデン伝とあいなります。

ただまぁ。
これは、①~③という、バイトテロをやるような人間のタイプを仮想して、理屈をつけた、ということに過ぎず。
現実のバイトテロリストたちは、実のところそんなに深く考えてはいない、というところが実際でしょう。

しかし。
それは彼らが自分の思考を言語化する過程を経ていない、というだけで。
バイトテロが自己のヒロイズムの充足だ、という自分の結論は、じつはいいところいってんじゃないかな、って思ってます。

若い彼らにとって、そして何より予想外だったことは。
自分の知らない外の世界において、まさかこんなにも「カネが重要だった」ということを知らなかった、ということで、まさにそれこそがかくも悲劇をもたらしたのだ、ということかもしれません。

なので、おそらく。
バイトテロ予防は、賭博黙示録カイジのエスポワール号の一連のお話……利根川の「ファックユー」を見せさえすれば、実は防止策になるんじゃないかななんて、わりと本気で考えていたりするのです。

お粗末。……と。ここまでで4,300字弱か。
あまり長くなんなかったな。

なので、最後に。
私の上記のような仮定と想定を、あまりにリアルに歌で表現している曲を一曲、紹介して終わりましょう。

amazarashi 「爆弾の作り方」。

私この方大好きなんですよ。
ひところ、愉快犯としての犯罪に爆弾魔、というジャンルがあり、テレビドラマでも赤か青の導線を切る、なんて演出で頻繁に登場してましたが。
この爆弾魔が抱える、社会から追い詰められたアイデンティティの崩壊と自己証明の行く先、その暴発。
これを青年特有の「報われない悩み」に置き換えて、「爆弾」は自らの「創作物」、爆弾の作り方とは、「社会をうならせゆるがす自らの芸術」になぞらえて歌われた一曲です。

自らの精神性と社会からの評価のずれに苦しみ、孤独に社会を驚かせるような創作にいそしむ。さながらそれは(今はまったくこの社会に必要とされていない、汚物ですらある自己作品に精を出すという意味で)爆弾を作っているようだ、という自嘲を重ねた内容となってます。

amazarashiさんはたまたま優れたミュージシャンだったので、彼にとっての爆弾は音楽だった、というだけで。
あるべき「魂」を持たない醜悪な人間の下位互換どもは、この爆弾が「バイトテロ」なのだ、と解釈すれば。

おお。見事に一致するではないか!
(※本当に俺はイヤな奴だな……)

♪僕らは常に武器を探してる それがバイトテロじゃないことを祈る~

(※ここまでで5,400文字弱)

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