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良い事日記、習慣にするのはやめた方がいい

「今日の良い事を日記に書いていこう」。
いわゆる、「良い事日記」

ぼく個人の体感としてこの「良い事日記」、メンタルが激不安定時の療養には効果があるんだけど、
安定してからも続けるのにはリスクがありました。

今日1日の良い事を書く、という事自体は確かに良い事なんだけど、
これってちょっとした自己暗示なんだよね。
「良い事があった、だから自分は幸せだ」と自分を納得させる自己暗示。

これがいきすぎると、
「良い事がなかったら自分は不幸だ」と思いこむ事にも繋がる。

良い事日記にはこうしたデメリットもある。
また、習慣付けする事で、「逆にメンタルが悪化する」という事態にもなります。


良い事日記のデメリット

メンタルが安定して日常に戻ると、
「良い事」の基準やハードルが上がります。

元気に起きられた、とか、ご飯が食べられた、とかが「当たり前の事」になると、
体感的にもっと「良い事」を見つける事になる。

でも、それを日記に書くのが習慣になってしまっていると、「何か書かなきゃ」とプレッシャーになって、
手当たり次第に「良い事」を探す事になってしまう。

体感的に「良い事」と思えないような事でも、「これは良い事だ、自分は幸せなんだ」と自分を無理やり納得させる事になる。

お昼が好物の唐揚げだったとか、
道端で見かけた花が綺麗だったとかそういう次元を超えて、

果ては今日も太陽が昇ったとか、
今も地球が廻ってるとか、
そんな至極当たり前でどうでもいい事さえもいちいち「良い事」として書くはめになる。

それで、「自分は幸せだ」と思えるか?
たぶん納得できないでしょ。

滑稽に思えてきて、我にかえって落ち込まない?
「自分、何してんの?」と。

「良い事といえば、好きな人から告白されたとか、あげた絵がバズったとか、
大河ドラマの主演が決まったとか、
普通皆そういう事を「良い事」っていうよね?」

「なのに何で自分は、唐揚げが食えたとか花が綺麗だったとか、太陽が昇ったとかくらいの事で過剰に喜んでるんだ?」

「こんなどうでもいい事でさえも良い事としてカウントしなきゃならないほど、自分はみじめなのか?」

このように、「良い事」に満足、納得いかなくなる事で自己嫌悪が生まれ、
結果メンタルが落ち込む事に繋がります。

「ささやかな幸せ」を大事にするような無欲なミニマリストならいいんだろうけど、
大半の人間は強欲なもの。
今が幸せでももっと大きな幸せを欲しがる生き物だから。

当たり前の事には「良い事だ、幸せだ」とは思えないのが人間。
それをごまかして「いいえ、自分はこれで十分幸せです」なんて自分に嘘をついていると、やがて心が疲弊し壊れていく。

というか良い事なんて、本来わざわざ探すものじゃないと思うんだよね。

幸せを感じる為に良い事を探して記録していくよりも、本当の意味での幸せを手に入れた方が生きやすいに決まってる。
その幸せこそが、自己受容感というものなんだろうな。

良い事日記をうまく取り入れるには

「良い事日記」は、療養時だけ取り入れた方がいいかもです。

療養中は当たり前の事が当たり前にできなくなるので、「自分はだめなんだ」と思いがち。

そこで「良い事日記」を取り入れ、
「今日は朝起きられた」「ご飯をしっかり食べられた」「テレビを楽しめた」と記録していく事で、
「自分はやれている」「回復に向かえている」と自信をつける事ができます。

そしてメンタルが安定して日常に戻ったら、良い事日記をつける事はやめよう。
良い事なんか特別いちいち気にせず、探さず、自然体でいる事を心がけておこう。

日記は、成長記録としてそっと保管しておくのがいいです。
見返した時「あの時も自分は頑張ってやれていたな」と、過去の自分から自信をもらう事ができるから。

良い事日記自体は、本来メンタル安定に役立つもの。
だけどそれに囚われすぎてしまうと、良い事を探す事に振り回されてしまって逆にメンタルが落ちます。けっこう諸刃の剣な治療法なんだよね。

必要な時にだけ取り入れる事を意識した方が、メンタルには優しいです。


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