見出し画像

スヌーピー対ムラカミ・ハルキ 幻の空中線(その1)

【1966年のロイヤルガーズメン、1973年のピンボール】

 最初に謝っておきます。――今回の妙なタイトルは、1960年代にアメリカで活躍したロイヤルガーズメンというロックバンドの曲、「スヌーピー対レッド・バロン 暁の空中戦」をもじったものです。
 アメリカ版の原題は「Snoopy Vs.The Red Baron」で、「暁の空中戦」というのは日本版が出た際の邦題あるいは副題みたいなもののようです。僕はこの曲を「村上RADIO」というラジオ番組で知りました。
 村上春樹さんがDJを務める音楽番組の訳詞特集、2019年10月13日の放送回です。村上春樹訳の歌詞が朗読される中で流れたのが、この陽気な曲でした。
 村上春樹さんによる曲紹介もありました。「スヌーピーは時々、ヘルメットつけて、スカーフ巻いて、犬小屋の上に立って戦闘機乗りのふりをする」「彼の宿敵がレッド・バロン」「ドイツの戦闘機乗りで、これとスヌーピーが大空中戦を繰り広げるという歌」と語られたんです。レッド・バロンとは実際に第一次大戦で活躍したマンフレート・フォン・リヒトホーフェン男爵で、真っ赤な戦闘機を操るパイロットだったんだとか。その通称が「レッド・バロン」、和訳すると「赤い男爵」だそうです。
 そして「戦闘機乗りのふりをする」スヌーピーの呼び名が「フライングエース」、そのふたりの空中戦を歌ったレコードが1966年に発売されてヒットした、というわけですね。――余談ながら、アニメ『ガンダム』シリーズには、真っ赤なモビルスーツを操る「赤い彗星」のシャアっていう人気キャラクターがいます。この赤い彗星のモデルといわれているのが、実在した「赤い男爵」。……ってことは、赤い彗星のライバルの「白いモビルスーツ」ことガンダムのモデルってのは、もしや「白いフライングエース」のスヌーピーってことになるんでしょうか?
 それはともかく、ラジオから聞こえた村上春樹さんの口ぶりからは、音楽への造詣はもちろん、彼がスヌーピーについても詳しいことが伝わってきました。知らない人は少ないと思いますが、スヌーピーとは漫画『PEANUTS』に登場する、世界的に有名なビーグル犬のことです。様々なキャラクターグッズがあふれているおかげで広く知られていますが、村上春樹さんの知識はもう一段深いようでした。
 実際、村上春樹作品を読んでいると、時々文中にスヌーピーの名が出てきます。僕自身、高校の学校図書館を舞台にした「ピーナッツの書架整理」という短編(双葉文庫刊『図書室のピーナッツ』収録)でそのことを題材にしました。村上春樹の『1973年のピンボール』に出てくるスヌーピーの絵柄がどんなものか、学校司書と高校生たちで調べるというストーリーを書いたんです。


そのグラスにはスヌーピーとウッドストックが犬小屋の上で楽しそうに遊んでいる漫画が描かれ、その上にはこんな吹き出し文字があった。
「幸せとは暖かい仲間」

(『1973年のピンボール』チャプター5 講談社文庫)

 自作のネタバレになりますが――結論から言ってしまうと、この絵柄のグラスは存在しません。いかにも存在しているようでいて実在はしないんです。似たような絵柄ならあるし、そんなようなグラスだってありそうですが、小説で言及されたのとぴったり同じ物はありません。
 かつてどこかの総理大臣が「存在しないことを証明するのは『悪魔の証明』といって不可能なんです!」などと答弁してたことがありましたが、そんなこたぁないです。「悪魔の証明」というのは、証明不能な件に限ってのたとえですし、論理的に存在しないと証明できるケースなんて無限にあります。例えば警察の捜査用語の「アリバイ」という言葉は「現場不在証明」などと訳されますが、この「不在証明」という言葉があること自体が、不在を証明できるってことの証拠ですよね。
 そして『1973年のピンボール』の「幸せとは暖かい仲間」のグラスについても、その不在を証明できるんです。どんな証明なのかは小説の中に書いておいたので、興味ある方にはご高覧いただきたいですが――本稿では「存在するかもしれないこと」について考察してみようと思います。
 では、何が存在するかもしれないのか。
 村上春樹とスヌーピーとの関係です。言い換えるなら、『PEANUTS』と村上春樹作品とを繋ぐ線です。
 幻かもしれないけれど、村上春樹作品と『PEANUTS』を読み比べると、ある種の繋がりを感じずにはいられないんです。まずは飛行機雲を辿るように、その空中線を探してみようと思います。

【『ピーナッツ全集』と謎解き】

 そもそも『PEANUTS』とは、アメリカの漫画家、チャールズ・М・シュルツによる新聞連載漫画のタイトルです。
 1950年10月2日から2000年2月13日まで、実に50年以上にわたってアメリカ内外の数多くの新聞で連載され、世界中の言語に翻訳されて、史上最も多くの読者を持つ漫画ともいわれています。日本では漫画そのものよりもキャラクターの方が有名で、とりわけ主人公チャーリー・ブラウンの愛犬、スヌーピーを見たことがないという人は珍しいほどです。昭和の時代から今に至るまで、スヌーピーのキャラクターグッズはそれこそ無数に作られて世の中を彩っています。
 元号が令和に入ってもその人気は衰えを知らず、2019年から20年にかけては全25巻に及ぶ『完全版 ピーナッツ全集』というのが河出書房新社から刊行されました。刊行開始は2019年10月、奇しくも「村上RADIO」の訳詞特集が放送されたのと同じ月です。
 「完全版」の名の通り、この全集は新聞連載された全17897作品を網羅しています。逆にいえば、連載が始まって以来約70年、この全集が出るまで、日本では書物として『PEANUTS』という作品の全容を把握することができなかったわけです。
 もっとも、こういう事情は日本に限ったことでもないようです。なにしろ日刊の新聞連載ですから、基本的に読まれるのは当日かぎり、よほど熱心な読者でなければ連載開始からの掲載紙や切り抜きを全て保存したりはしません。単行本化については新聞に掲載された作品の中から抜粋したものだけ、という形がずっと続いていたらしく、他ならぬ作者シュルツが新聞掲載後にお蔵入りにした作品もあったそうです。
 インターネットの普及後には過去作品のアーカイブみたいなサイトもできたんですが(https://www.gocomics.com/peanuts/ )、それで読破したという人も限られていることでしょう。本国アメリカでさえ、全25巻の『THE COMPLETE PEANUTS』が2016年に完結するまで、一般読者は全作品を通読することは難しかったそうです。
 その『THE COMPLETE PEANUTS』が2016年に完結するまで、一般読者は全作品を通読することは難しかったそうです。
 その『THE COMPLETE PEANUTS』の、待望の邦訳版が『完全版 ピーナッツ全集』でした。――なにしろ、これだけキャラクター人気が高いというのに、日本では不思議なくらい『PEANUTS』という漫画作品が浸透していないんです。
 「スヌーピーが大好きでグッズも持っている」という人は多いことでしょう。しかし「犬小屋の上でヘルメットをつけてスカーフを巻いているスヌーピー」を知っていても、いったい何をしているのか、何故そんなことができるのかは分かっていないって人も多いと思います。2021年に流れたテレビCMで「スヌーピーの恋人だと思われてるこの女の子は、実はスヌーピーの妹」なんてトリビアが語られていましたが、それがネタになるくらい、知らない人がいるってことですよね。
 その原因はいろいろとあるでしょうが、日本で刊行された『PEANUTS』関連本が全て断片的だったのも一因だと思います。本来は新聞連載の流れの中での面白さがあったわけですが、長く続いている連載を全て邦訳するというような大事業はなかなか実現されず、本では必ず抜粋の形になっていました。一本ずつ切り離されたり順序を変えたりして編集されていたから、『PEANUTS』という作品の全体像が捉えにくかったんですね。それでも充分に魅力的ではありましたが、前後の文脈を知らないとよく分からないエピソードというのも少なからず存在していました。
 そんな中で刊行された『ピーナッツ全集』です。僕はこの際、定期購読して全巻読み通すことにしました。それが自分の小説で扱った作品への敬意だとも思ったし、一種の謎解きのような気持ちもあったんです。
 幼いころに初めて読んだ時から、僕にとって『PEANUTS』という作品は、ずっと謎の要素を孕んでいたんです。

【1971年のビーグル長官】

 僕が初めて『PEANUTS』を読んだのは7歳の冬のことでした。1979年1月ということになります。家族で泊まったホテルの売店で、スヌーピーのぬいぐるみと『ビーグル長官スヌーピー』という本を買ってもらったんです。
 この本は鶴書房から1971年に刊行された邦訳版で、今確認してみたら、62年と69年と70年に発表された原作からの抜粋が収録されているとのこと。収録作品を見ると、「スヌーピーが犬小屋で何かしているエピソード」や「ビーグル長官にまつわるエピソード」が多いようです。ストーリーが繋がっている作品群もあるにはあるんですが、もともと離れた時期に発表された作品をまとめたものだから、断片を集めて一冊にまとめた印象があります。
 そもそもが新聞連載で一日一作品を楽しむ形の漫画ですから、毎日の作品が連続しているとは限りません。今日はスヌーピーの犬小屋を舞台にした話が描かれても、明日は子供たちの通う学校の話かもしれないし、野球チームの話かもしれません。ストーリー漫画とは違って連続性が前提ではないので、断片を集めた単行本でも誰も気にしなかったのでしょう。新聞連載の断片性のおかげで多様な編集が可能だった、ともいえそうです。
 断片性と並んで注目したいのが平面性です。――この時代に発表された作品では、スヌーピーの犬小屋が真横から見た構図で描かれるようになっているんです。50年代には斜め前からの構図で立体的に描かれていた犬小屋が、連載が続くにつれ、次第に平面的・抽象的に描かれるようになったんだとか。その平面化の効用についてシュルツ自身が語っています。『スヌーピーのひみつAtoZ』(新潮社)の「Doghouse」の項から引用してみましょう。


「犬小屋を斜め前方から見せず、真横からだけ見せ続ければ、読者はそれを犬小屋だとやがて受け入れ、でも同時にそれが犬小屋かどうかなんて気にしなくなる。こうしてスヌーピーは犬小屋の上に座ることができる。タイプライターも打てるようになる。それが滑り落ちることもない。仰向けに転がることもできる。そんな具合にすべてが受け入れられる。すると、スヌーピーが考えて行う何もかもがかなり空想的になって、それをまた子どもたちは受け入れるんだ」

『スヌーピーのひみつAtoZ』

 スヌーピーは犬小屋の上で空想の世界に浸ります。世界的に有名な小説家とか戦闘機乗りとか、様々な役柄になりきってあれこれ行動するんですが、そういう展開が成立するのも、横から描かれて平面化された構図のおかげだったというわけです。犬小屋の立体感を捨てたことで、平面性が空想の多様さを許容してくれたともいえます。そのあたり、断片性から再編集の多様性が生まれたこととも繋がりますね。
 ここで思い出されるのが、スイスの文芸学者、マックス・リュティの様式理論です。リュティは著書『ヨーロッパの昔話』(小澤俊夫訳・岩波文庫)の中で昔話の様式について明晰に理論化してまして、中の一章を「平面性」という項目に割いています。大雑把に要約すると、「昔話では人物や物は奥行きを持っていない図形のように描かる」「それによって話の筋が明確に浮かび上がる」「聞き手や読み手に受け入れやすくなる」というんですね。この理論、スヌーピーの犬小屋にも通じそうです。
 また、「純化と含世界性」という章では、犬小屋の立体感を無くすような表現のことを「純化作用」と呼んでいます。彼の理論を当てはめると、犬小屋本来の立体感がないということは「中身を抜いて語る」ことであり、犬小屋の属性と切り離して描けるということで「孤立的に語る」ことである、ともいえます。
 それでどんな表現効果が得られるかというと、「純化的孤立作用は『自由な』アンサンブルの可能性をつくりだす」と語られています。ちょっと難しい言い回しですが、その言い換えとして「簡単に、なにかと結びつくことができるようになる」とも説明されています。
 要するに、スヌーピーの犬小屋が平面的になり、奥行きがなくなったことによって、「スヌーピーが考えて行う何もかも」が受け入れられるようになった、ということです。さらにまとめれば、純化された犬小屋によって『PEANUTS』と様々な空想が結びつきやすくなった、ともいえそうです。
 考えてみると、僕が『ビーグル長官スヌーピー』を買ってもらったのだって、平面性や純化作用のおかげだったのかもしれません。売店にツルコミックスの本がずらりと並んでいた中、わざわざ26巻目にあたるその1冊が選ばれたわけですからね。他の巻では人間の子供たちが中心になっていて、セリフが多くて話が複雑そうに見えるものもあります。その点、『ビーグル長官スヌーピー』は見るからにスヌーピーが中心の巻です。「かわいい犬のお話のようだ」とか「シンプルな絵柄で分かりやすそうだ」といった理由から、僕の親は7歳の子に買い与えたのかなーと思えます。

 ところが、です。――子供にも分かりやすいはずのその漫画が、当時の僕にはさっぱり分かりませんでした。
 漫画としての楽しみどころが把握できなかったんです。一緒に買ってもらったスヌーピーのぬいぐるみは大のお気に入りでライナスの安心毛布みたいに持ち歩くようになったんですが、漫画の方には全くハマらず、やがて本棚に突っ込んだままとなってしまいました。
 なにしろ、当時の僕には「そこに描いてあるのが何の絵か」ということさえ分かってなかったんです。そりゃあ犬と犬小屋くらいは理解できましたが、スヌーピーが犬小屋の上で使っているタイプライターとなると全く意味不明でした。その謎の物体を小鳥と一緒になって扱っている絵(たとえばhttps://www.gocomics.com/peanuts/1970/02/23)を見て、「何かしらの鳥をかたどったおもちゃが袋に入っているのを横から見た図かな?」などと想像していたアホな少年でありました。
 1979年当時、北関東の田舎で育ったアホ少年には、タイプライターという概念自体がなかったのです。もちろん当時の日本にだってタイプライターくらいはあったんでしょうが、一般に広く普及しているというほどではありませんでした。まして、そのタイプライターは真横から見た構図で抽象的に描かれ、犬小屋の上に座った犬が使っているわけです。その物体が何であるのかなんて見当もつきませんでした。
 その少年が大きくなって、やがてワープロやコンピューターを使って仕事をするようになるのは運命の不思議ってものですが――僕がその絵に何が描かれているのか悟ったのは、実に中学生になってからのことでした。「鳥をかたどったおもちゃが袋に入っている」わけではなさそうだとは気づいていたものの、謎は謎のまま抱えて何年も過ごしたわけです。
 同じことはタイトルにもなっている「ビーグル長官」という言葉にもいえます。その名称の意味する内容を理解できたのは、実に四十代も後半になってからです。『ピーナッツ全集』で一通りの流れを把握するまでの約四十年間、そのタイトルの意味を分かってなかったわけですね。
 もっとも、これは僕がアホなせいばかりじゃない、と思います。そもそも『PEANUTS』という作品の中でも、ビーグル長官という名称のしっかりした定義づけは行われいないのです。むしろ、それが謎であることこそが笑いの素となっている作品も多いです。(たとえばhttps://www.gocomics.com/peanuts/1969/10/13
 「物凄く尊敬を集めているようだ」とか、「就任式が全米にテレビ中継されているようだ」とか、「ビーグル犬のみならず他の犬種も束ねる権力者らしい」とか、情報は断片的に示されます。読者はその断片を繋ぎ合わせてそれぞれのビーグル長官像をイメージするしかないわけで、そんな設定自体がギャグのようになっています。一作一作を読みながらイメージを膨らましたり、意外なところで新たな情報が出てきたりという過程こそが楽しかったのかもしれません。犬小屋の横構図と一緒で、読んでいくうちに自然と「すべてが受け入れられる」ようになったんだと思います。
 要するに、『PEANUTS』という作品には、「断片的で様々なまとめ方ができる」とか、「平面的で抽象的な表現から空想が膨らむ」とか、「謎が謎のままで読者の解釈にゆだねられる」という面があるわけです。

【消化不良と新たな関係】

 と、ここまで書いたところで本筋に戻ります。『PEANUTS』から村上春樹の方へ、幻の空中線を伸ばしてみましょう。
 『PEANUTS』から考察した「断片的で様々なまとめ方ができる」とか「謎が謎のままで読者の解釈にゆだねられる」とかの特徴は、どうやら村上春樹作品にもあてまるようです。
 なにしろ、村上春樹の長編小説といったらたくさんの断片から構成されたものが多いです。これは『風の歌を聴け』とか『1973年のピンボール』といった初期作品のページをめくれば明らかですよね。そして断片と断片の繋がりは明示されていないことが多いので、読者は頭の中でそれを繋げて想像することができます。
 そして長編が上下巻とか三巻・四巻本として刊行されるような長さになると、作中の謎めいた要素の顛末が明かされることなく終わることが多くなりました。「いるかホテルとか不確かな壁って何なのだ?」とか「羊男とかリトルピープルとか騎士団長って誰なのだ?」といった疑問について、明確に即答できる人って少ないんじゃないでしょうか? アンチ春樹な人に話を聞いてみると、明かされない事情について「結局どういうことなの?」みたいな消化不良感を抱えて嫌いになった、って声も多いようです。
 ですが、そんな明かされない謎も、断片性を繋ぐことで魅力的に見えるってことを指摘したいと思います。一例として、デビュー作『風の歌を聴け』のリクエスト曲のエピソードを考えてみましょう。アンチな人の「結局どういうことだったの?」っていう声に対する、僕なりの回答ですが――その空中線で、少しでも消化不良感が消えてくれたら嬉しいです。

 『風の歌を聴け』のチャプター12では、語り手の大学生、21歳の「僕」のところに、「ポップス・テレフォン・リクエスト」というラジオ番組から電話がかかってきます。「君にリクエスト曲をプレゼントした女の子」がいる、とのことで、誰だか分かればプレゼントが当たる、という企画です。その曲がビーチ・ボーイズの「カリフォルニア・ガールズ」だということで、主人公は5年前に同級生の女の子からそのレコードを借りたこと、そしてそのレコードを失くしてしまって返していないことを思い出します。
 続くチャプター13では「カリフォルニア・ガールズ」の訳詞が、ちょうどラジオから1曲流れるように挿入されます。そしてチャプター14ではそのラジオ番組からTシャツが送られてきたと書かれているので、読者は断片を繋いで「ああリクエスト主は同級生の女の子で正解だったんだな」と分かる仕組みです。
 そして主人公は、失くしてしまったレコードを買い直します。きっと同級生の彼女に返そうと思ったんでしょう。ですが、レコードは買えたものの、肝心の彼女の消息がつかめません。女子大の英文科に進んだ後、病気の療養のために退学したと分かるだけです。
 エピソードはそこでいったん途切れます。レコードは返せずじまいだった、昔の同級生の消息は分からずじまいだった……と受け取ることもできますし、実際そういう読者も多いようです。僕は何人かの読者とこの話をしてみましたが、やはり「消息はつかめずじまい」と受け取っている人が多かったです。
 ところが、そこから物語の終盤、チャプター37に空中線を繋ぐことができるんです。そうなると事情が変わってきます。というか、事情が変わったように読むこともできます。
 チャプター37は例の「ポップス・テレフォン・リクエスト」というラジオ番組で、そこでリスナーからの手紙が紹介されます。脊髄の病気で3年ほど入院としているという、17歳の女の子からの手紙です。ベッドに寝たきりの彼女のため、付き添いのお姉さんが代筆した手紙なんですが――そのお姉さんについて、「私を看病するために大学を止めました」と書かれているんです。
 このお姉さんと、療養中の妹さんが、病室で一緒に「ポップス・テレフォン・リクエスト」を聞いている――とまでは、書いてありません。そのお姉さんこそが「カリフォルニア・ガールズ」のレコードを貸してくれた同級生の女の子――とも書いてありません。もちろん、看病の合間にラジオ局に葉書を出して、同級生の男の子にリクエスト曲をプレゼントした、とも書いてないわけです。
 でも、そう解釈することだって可能です。「そうか、『病気の療養のため』というのは本人の病気じゃなくて、妹さん病気ってことか!」と考えて読んでも、作品のどの文章とも齟齬はないんですね。
 そして僕の感覚としては、そうやって空想を膨らませた方が、はるかに『風の歌を聴け』という作品を好きになれる気がします。それは単に長編小説を1冊読んだというだけじゃなく、空中に線を引いて断片を繋いだ、自分から物語に主体的に参加したという経験を味わえるからじゃないでしょうか?
 もちろん、それは勝手な深読みかもしれません。同級生の女の子と看病のお姉さんが同一人物という可能性と同時に、別人だという可能性だってあるわけですから。ただ、それでも「ラジオ番組を通じて、主人公が同級生の女の子のことを思うことができる」って事実は残ります。主人公も心の中で空中線を引いたかもしれないと考えることはできます。
 そうやって主人公が誰かとの繋がりを意識する、という構造は、『風の歌を聴け』から23年後に出た長編『海辺のカフカ』でも描かれます。幼い頃に母と姉を失くした主人公の少年は、家出して旅に出た先で出会う女性との間に疑似的な母子関係や姉弟関係を意識しながら成長していくんです。自己と他者との間に新たな関係を見出すこと、自分なりの空中線を描くことは、村上作品における重要なテーマの一つのように思えます。
 最新長編『街とその不確かな壁』だって、空中線の視線から読むことができそうです。例えば、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では閉じた世界として描かれた「世界の終り』パートでしたが、『街とその不確かな壁』の「街」ではどこかで現実世界と繋がっているように書かれています。両者の違い、その点と点を繋ぐ線を引くとしたら、間を繋いでいるのは何でしょう? 『海辺のカフカ』と答えることもできそうだし、主人公の恋愛だとか、子易さんやイエロー・サブマリンの少年の存在だとか言うことだってできるかもしれません。――ここでその考察を始めたらこの文章がどんどん長くなりそうなので、今は我慢しておきますけども。

【1965年のフライングエース】

 再び『PEANUTS』に話を戻します。
 長年新聞で連載されていた『PEANUTS』には連載開始から多くの読者がいましたが、全米で人気が爆発したきっかけの一つは、フライングエースだったそうです。――冒頭で紹介したように、新聞連載漫画からロックバンドが「Snoopy Vs.The Red Baron」って曲を作ってヒットしたくらいですからね。
 村上春樹が自らのラジオで、「スヌーピーは時々、ヘルメットつけて、スカーフ巻いて、犬小屋の上に立って戦闘機乗りのふりをする」と表現したフライングエースは、連載の中でも人気を呼んでその後も何度となく登場しました。関連グッズなどもたくさん発売され、今の日本でもいろいろ買うことができます(この記事のトップ画像にしたフライングエースは2022年に発売されたチョコエッグのオマケです)。その人気の理由は――漫画として面白かったとか、その姿がデザイン的に優れていたとか、いろいろあるでしょうが、「スヌーピーが犬小屋の上で空想の世界に遊んでいる」という設定が読者の共感を呼んだというのも大きそうです。
 漫画の中で、戦闘機そのものが描かれることは決してありません。それでも平面的に描かれた犬小屋のおかげで、読者も「犬小屋の上にヘルメットつけてスカーフ巻いた犬がいる」という絵を「戦闘機で空を飛んでいる」という空想と結びつけられることができます。こういう効果は、『PEANUTS』と『風の歌を聴け』に共通しているんじゃないでしょうか。
 『風の歌を聴け』では、「ポップス・テレフォン・リクエスト」というラジオ番組のDJの姿が描かれることはありません。ですがそのDJの語りのおかげで、読者は主人公と同級生の女の子の結びつきを想像できます。両作品とも、書かれていないこと、描かれていないことが、物語に魅力を添えてくれているわけですね。

 余談ながら、『PEANUTS』にフライングエースが登場するのは1965年のことです。
 この年には作者シュルツの創作に脂がのりまくっていたようで、フライングエースと並んで人気の高いスヌーピーの変装、犬小屋の上にタイプライターを置いて執筆する、小説王あるいはリテラリーエースと呼ばれるキャラクターも生まれています。また、初めて『PEANUTS』のTVアニメ『スヌーピーのメリークリスマス』が作られて大人気となった年でもありました。
 そして『風の歌を聴け』は1970年8月の物語ですが……ってことは、主人公が5年前に同級生の女の子からレコードを借りたのは1965年の出来事ということになります。さすがに僕も、これは偶然の一致かなーとは思いますけども。
 それからチャプター39、物語のエピローグみたいなエピソードでは、主人公の親友が毎年、自作の小説を送ってくれることが記されています。主人公は12月24日生まれということで、原稿用紙の一枚めには「ハッピー・バースデイ、そしてホワイト・クリスマス」と書いてあるんですが――小説を書くことやクリスマスを祝うことが、1965年という年を通じて『PEANUTS』と『風の歌を聴け』を結びつけているような気がするのは僕だけでしょうか?

 まあ、そういう繋がりの一つを一つに対して、いちいち作者の意図だと捉えたり、文学的新発見だと悦に入ったりというのは野暮かと思います。僕がここで述べたいのは、そういう繋がりを想像しながらいろんな作品を読んでいくのも面白いよね、という話です。
 村上春樹とスヌーピーの繋がりや共通点は、他にもまだまだたくさんあります。誰もが知っているようなあるあるネタから、かなり意外で驚くようなネタまであるんですが――今回はこのへんにしておきます。
 いずれ機会があったら、そういう空中線についても書き綴ってみたいと思っています。

お気に召したらぜひよろしく。 励みになります……というか、お一人でもおられるうちは続けようと思ってます。