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罪深き マヨえる子羊よ

誰が最初に言い出したのかは定かではないが“マヨラー”という言葉がある。

何を隠そう僕はそのマヨラーというカテゴリにどっぷり属している人間だ。
あくまでも聞いた話なので確証はないが一説によると、一時は日本のマヨネーズ消費量のうち約4割は僕によるものだったという話も聞いたことがある。
キューピー株式会社の社員さんは僕のおかげで生活できているようなものなので、ただちに僕の口座に2万円ずつ振り込んで頂きたい。
そのお金でプレステ4とニンテンドースイッチと猫を買わせて頂きたい。
それでも余ったお金はパルムとカラムーチョとブラックサンダーに使わせて頂きたい。
お金の使い方が初めてバイトした高校一年生の夏と何も変わっていない。もう35歳なのに。情けない。

今となっては当時ほどのマヨラーぶりは発揮できていないが
(あんまり調子に乗ってかけ過ぎると嫁に何故かキレられるんです)
独身時代は本当に何にでもマヨネーズをかけて食べていたし、その気になればその辺に生えている雑草とかでもマヨネーズさえあれば食べられるくらい重症、もとい重度のマヨラーであった。

さて。そんな我らマヨラーだが、実はそれなりに苦悩も抱えている。
外食をした際に付け合わせのマヨネーズをちょっと多めに付けて食べたり、
店員さんにおかマヨ(おかわりマヨネーズの事を界隈ではそう呼ぶ)を要求した瞬間の周りから寄せられる

「え、お前マヨラーなの?」

と言わんばかりのあの非難とも嘲笑とも蔑みともとれる視線。
これは我が同胞であるマヨラー諸君も経験した事があると思うし、さぞかし憤りを感じていると思う。
僕は生まれも育ちも日本で、はっきり言って人種差別というものを実感した経験はないが、でもあの瞬間のあの空気や視線は間違いなく差別のそれだと思う。
マヨネーズを少しでも多くかけただけで、なんというか、こう“わかってない感”というか。
マヨラーだという、ただそれだけで「味音痴」や「馬鹿舌」の汚名を着せられるのだ。これには本当に納得がいかない。
マヨネーズをかけない事がそんなに偉いのか。
マヨネーズをかけない事が正義なのか。
では、マヨラーは悪か。
マヨネーズとは悪なのか。
「お前らマヨラーは隅っこでマヨちゅっちゅしてろ」とでも言うのか。マヨちゅっちゅ、て。懐かし。
いや、しかし本当に
「マヨネーズに意地悪された過去があるのかな」
とか
「前世でマヨネーズに親でも殺されたのだろうか」
と思ってしまうほどにマヨラーに対する世間の視線は冷たいように思える。

この際だから言わせてもらおう。
非マヨラーは、いや、世の皆様はマヨネーズに対してもっと敬意を払うべきである。
マヨネーズをあまりに軽視し過ぎだ。
日常において、我々人類が無意識のうちにどれほどマヨネーズに食生活を助けられているか。
セロリとか、マヨネーズが無かったらどう食べるのか。
あんなものはただの植物の茎ではないか。
マヨネーズがあるからセロリは食材として美味しく食べられるし、
マヨネーズがあるから山崎まさよしは夏がダメだったりセロリが好きだったりするのだ。(まさよし関係ねー)
ブロッコリーとか、もはやマヨネーズも込みでブロッコリーだ。奴だけでは心許無い。
むしろマヨネーズがブロッコリーだ。
…いや、これは違う。マヨネーズはマヨネーズだし、ブロッコリーはブロッコリーだ。
ちょっと自分でも訳が分からなくなってきた。
一旦落ち着きます。

明太マヨやツナマヨも当たり前のように総菜パン、おにぎりの具として跋扈しているがあれだってマヨネーズのおかげである。
明太子はともかくツナなんてマヨネーズがなければ、ただの腑抜けだ。
夜中に一人でトイレに行くことすら出来ない腰抜け野郎だ。(前世でツナに親でも殺されたのだろうか)
皆様が意識してないだけでマヨネーズは思っている以上に我々の食生活に深く入り込んできているし、それを知らず知らずのうちに受け入れているのだ。我々を批判している非マヨラーも美味しく食べているのだ。しかしマヨネーズは文句ひとつ言わず、そんな彼らにも手を差し伸べる。
それはひとえにマヨネーズの懐の深さが為せる業なのだろう。

これからも僕は声を上げ続ける。
いちマヨラーとして世間に訴え続ける。それが僕の使命だと思っている。
マヨネーズこそ真理。
マヨネーズこそ人類の起源。
マヨネーズこそ神。
もうマヨネーズなんて呼び捨てにするのすらおこがましい。
様を付けるべきだ。マヨネーズ様と呼ぶべきだ。
全員明日からはマヨネーズ様、そう呼ぶように。

まぁ僕は呼びませんが。
頭おかしいじゃないですか、そんなの。馬鹿みたい。

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