「ネタが無い」けど「書いている」のカラクリ
今さっき言語化された悩みがあるので、今日はそれをアウトプットしていこうと思う。
「noteに書くネタが無い時は書かないべきか」
毎日投稿をしている。
つまり毎日1記事noteを書いている。
それすなわち1日1ネタ浮かんでいる。
それが基本である。
しかし僕も人間だ。
何にも浮かばない時はあるし、「書きたくない」って時もある。
「書きたくない」って時に「書かない」という選択肢を取るのはアリだと思う。
だって書きたくないんだもん。書かないに限るよ。
問題は「何も思い浮かばない」って時。
書く気力自体はあるけれど、肝心のネタが無い。
物理的に「書けない」時は「書かない」という選択肢を取っていいのだろうか。
言っておくが、答えは無いよ。
最初に書いた通り「悩みが言語化された」だけで「解決した」というわけじゃない。
そして何よりこんなことをnoteに書いている。
つまり今日は「ネタが無い」けど「書いている」のである。
まぁ「それが答え」と言っても差し支えないだろう。
文章力ってのは、書くから付くのである。
書かなければ廃れていく。
もちろん休むことも重要だ。
だから「書きたくない」って時は「書かない」という選択をしてあげる。
「やりたくない」と「できない」の違いだろうか。
行動の原点である感情が「やりたくない」と言っていることはやるべきじゃない。
体育が苦手な子に運動をさせると、さらに運動嫌いになるように、感情が否定していることを強制的にやらせると、もっと大きな抵抗が返ってくる。
運動が苦手な人に運動をさせたいなら「感情」を変えること。
運動不足の不健康を説くのか、楽しそうに運動している様を見せるのか、はたまたアスリートを見て憧れさせるのか、方法はいろいろある。
まぁ現代にそんな運動が必要かどうかは疑問だけどね。
歩けるだけの足腰と、荷物を運べる筋肉さえあれば、生活に困ることは無いだろう。
そこから先は趣味の領域。
僕のnote活動も、この領域内にあるんだろうな。
文章なんざ書けなくても、人の話を理解できて、自分の考えを伝えられればそれでいい。
僕のnote活動は、さらに「おもしろさ」を求めている。
歩行と荷物さえ運べればOKな運動に、「テニスができる」を付け加えるように、理解伝達ができればOKな文章に「おもしろさ」を付け加える。
この「おもしろさ」は、芸人さんのような「笑い」ではなく、「なるほどそういうことね」という知識欲を満たすイメージ。
明らかに文章力の必要最低ラインを逸脱した「趣味」の領域である。
つまり「やりたい」から「やっている」のだ。
「やりたい」の前に「できない」という事実は不要である。
やっていった先で「できる」を創ればいいのだから。
「何個目だよ」というツッコミが入るくらいには「ネタが無い」ってネタでnoteを書いている。
そのたびに「書いちゃえば書けるよな」という実感を得る。
もちろん書こうとしたけど書けなかったことだって何度もあった。
そん時は潔く諦めて、明日に託す。
そんなやり方でもこうしてnoteを続けられている。
どうでしょう?
新しい年になったってことで、「新しい習慣」を取り入れてみるってのは?
そしてその選択に「noteを書く」を取ってみては?
ライバルが増えるのは嫌なので、やっぱり書かないでいいよ。
マジだからね?
絶対書くなよ!
以上!くろだでした。
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