パクり上等!かかってこいや!!
そもそもパクりとか無いわけよ!
このnoteの中で書いた言葉を引用する。
これは星野源さんの新曲『光の跡』リリース直後に書いたnoteだ。
そこで書いた通り、「いい曲だ」くらいの感想しか今は無い。
それは僕の音楽咀嚼速度の遅さが原因である。
それだけだ。
それだけでよかったはずなのに、言い訳がましく「被ったらダルいでしょ」なんて言っている。
「待て、待てよ」と。
表現者はパクってなんぼ。
なんなら「パクり」という概念は存在しない!
最初に言っておくが、人のnoteを全文コピーして自分のアカウントで全文ペースト投稿するのはダメだよ。
僕がここで言いたいのは、「同じ表現はひとつとして無い」ということ。
たまにSNSで「答えは合っているけど、途中式で減点されている答案用紙」が流れてくる。
そこに書かれている文言は「これはまだ習っていないよ」的なこと。
かけ算をやっていないのに使っていたり、円周率をπで求めたり。
間違っていないのだ。
だから答えは合っている。
しかし途中式は習っていないという体である。
塾で習ったのだろう。
そして「みんなが知らない便利なもの」は使いたくなる。
だから使った。
大人になれば「成果」が求められる。
そのためにどんな手段を使おうとも、法律に反していなければすべておけ。
「5+5+5」で計算するより「5×3」で求めた方が早い。
ならばかけ算を使ってもいいのである。
それを大人はわかっているから、SNSに投稿され、共感を呼ぶ。
しかし”大人”ならば、「その場その場での適切な対応」というものがあるのもまた事実。
「まだかけ算をやっていない」という世界観は、「ダイヤはおろか鉄すら手に入っていないマイクラ初期」と同じである。
クリエイティブでツールを手に入れるのも遊び方の一つではあるが、サバイバルで1からワールドを”自分でクラフト”していくのもまた一興。
それならば木を切り、木のツールで石を掘り、石のツールでやりくりする。
学校の「足し算縛り」も、そんな”適応能力”を学ぶ場なのかもしれない。
えらく話がズレたね。
「足し算でもかけ算でも答えが同じになる時がある。答えが同じでも、求め方が違うので、それらは”違う表現”なのだ。」
そんな話をしたかった。
しかしまぁ、上の例も使えるか。
同じ「共感意見」でも「どう共感しているか」は違うものであり、「反対意見」でも「どう反対しているか」は違うものである。
「断固賛成」「断固反対」とパックリ二つに割れている意見もあれば、「やや賛成」「やや反対」のように折衷案を模索する動きもある。
どれが正解というのはない。
変えない方がいいものも、変えた方がいいものも、変えるべきだけど慎重になるべきものも、様々ある。
同じ意見でも、そこに至るまでの”過程”はバラバラなのだから、どんどん表現していけ!
そんなお話でした。
つまりコピペは”過程”が無いからダメなのか?
以上!くろだでした。
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