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僕が私を「私」と呼ぶ理由

こんにちは。
黒木久呂です。
なんとなく名乗ってみました。

私がnote始める際に悩んだのが一人称です。
これまでならまず「僕」にしていたことでしょう。
しかし、ここでは単なるブログ執筆者ではなくて一応「物書き志望」というプロフィールを使っています。
はぐらかしてはいますが、小説家の事です。
そして、(仮にも)小説家として「僕」を持ち出す事は、どうしても村上春樹を連想してしまう自分が仁王立ちで立ちはだかりました。
村上春樹については下書きに溜まった文章が形にならずにしまってあるので、いつかちゃんと書く予定ですが、とにかく小説家(仮)の自分が「僕」で語り出すのは、すごく危ない気がした。
うまく言えませんが。

残る候補は「私」と「俺」くらい。
「俺」は論外でした。たまに使う分にはアクセントにはなるけど、常に「俺」で話すなんて恥ずかしすぎて無理です。
なろう系小説の主人公でもない限りしんどいです。ハードボイルドでも使われるのかもしれませんが、とにかくフィクション以外で「俺」で書く人を知らないし、しかも自分が「俺」なんてありえない。

結果、消去法的に「私」になったというだけの話です。
実は私が私を「私」と書くとき、実際にはとんでもなく違和感を感じながら書いています。
だって、実生活で「私」(わたし、と読んでます)なんて言う機会ゼロですからね。
だから私が私を「私」と書くとき、なんか自分偉そうだなぁと今でも読み返して思うのです。

でも今ではそれで良かったと思い始めています。
「私」と書くとき、そこにはペルソナが生まれる。
実際の私とnote上の「私」は、少しだけ違う存在です。
私と「私」には、少しだけ距離が発生します。
だからまあ、偉そうなのは鼻につくけど自分じゃないしいいや、と気楽に書けるという具合です。
そしてやはりなにより「僕」にしなくて良かった。
心底そう思う。
今でも十分痛い文章が、さらに薄ら寒くなるのが目に見えてわかるのです。
想像するだけで震えてきます。
自意識が暴走して止まらなくなるでしょう。
暴走して活動限界して覚醒してしまうでしょう。
それは避けたい。
その意味でペルソナを被る意味と、それを引き出す一人称の「私」は、今となってはベターな選択だったのだと思います。

母語が英語だったらこんな事で悩まなくてもよかったのにね。

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