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小学生の頃はやけに活発だった子供が乗る思春期の列車

こんにちは。

よく、小学生までは活発だったのに、思春期に入ると大人しくなる子供がいます。
私がまさにそれでした。
ずっと、自分の中であれはなんだったのかと考えてきたのですが、考えても明確な答えは出なかった。
今にして思えば、あれもADHDの特性ゆえの変化だったのだろうと少し納得しています。

自意識が優位になる以前、いわゆる小学生の頃は衝動性が勝って、ただうるさい子供でいられますよね。
子供なのだから、それで特に悪目立ちもしないし。
だけど思春期に入ると、自意識の目覚めによってそうもいかなくなる。
空気を読むことを今までになかったほど求められるようになるし、なにより自分がどう見られるかを気にするようになる。
異性を意識しはじめる。するとやはり、自分の衝動性に、自ら待ったをかける意識が働きだす。
そういう諸々の、単なる思春期における変化に違いないのですが、それだけの事がADHD者には重いブレーキをかける一因になるのかなと。

そのときにかかるブレーキの強さにはとりわけ個人差が大きいと思います。
別にADHD特性を持たない人にだってそれは起こるでしょう。
どこまでがADHDのせいかなんて、自分には知る由もない。
だけど、大人になってADHDの自覚に目覚めた人間からすると、ああなるほどと膝を打つほどにはしっくりくる理由にはなるのですね。


思春期に入って困ったのは、やはり周りの人間との心の距離を理性的に感じ取るようになること。
衝動性が消えたわけではないので、自分の中でそれを押さえつつ周りから浮かないように模索しながら生活するわけです。
思い返せば、きっと自分自身は、本当は小学生から変わらずはしゃぎ回っていたかったのかもしれないな、とふと思いました。
だけど、理性がそれを許さない。
周りが大人びて行くなかで、自分だけ浮いてしまうことを恐れる感覚はちゃんとある。
センサーはある程度まともで、本体がぶっ壊れてる感じです。笑
それって、一番つらい事なんじゃないかなとも思いますが…。

その変化を自分の中だけで処理するには、中学生の頭と心には荷が重すぎる。
だからその頃に本を読み出したり、哲学的な思考に目覚めたりするのでしょう。
哲学は、自己の欲求からおこるのです。
まあしかし、欲しい答えなんて出ませんよね。
だから、思春期の子供が急に大人しくなったり不登校になるのは、むしろ当然のことなのかもしれないですね。

ただそんな事はずっとあったはずです。
不登校が社会問題になる以前からずっと。
なんなら大昔から。有史以前から。
発達障害なんて概念がなくとも、思春期というのはそういう事が起こる時期なんだよと、大人はみんな知っていたはず。
でもその理由は、ただ思春期の変化、個人の性格というところで片付けられてきたのでしょう。
そこに発達障害のフィルターを加えると、今まで見えなかった事も見えてきそうです。

発達障害の本当の研究は始まったばかりに見えます。
これからどんどん、フィルターは拡大していくことでしょう。


話を戻して、思春期の頃の体験によっては、その後の人生が大きく変わる可能性があることは、昨今の不登校や引きこもりの事情を見ていれば明らかです。
人生の中で見れば、時期としては本当に短い。
しかし渦中の人間にとっては、そんな状況がこれから先ずっと続くのではないかと思えて、とてもじゃないけど短いなんて感覚は持てるはずないと思う。
人生で初めて起きた巨大な変化のひとつなのです。

思春期というのは、高速の列車に乗っていつ終わるともわからないトンネルをくぐり抜けるような感覚の極めて特殊な時期です。
たとえ学校に行くのをやめたところで、思春期という列車自体は猛スピードで走り続けています。
生きている以上、降りることはできない。

大人になった我々は全員、その時期をなんとかくぐり抜けてきたわけですが、誰でも思春期というのは特別な経験だったはずです。
大して傷つくことなく、むしろ楽しめたという人はその幸運を感謝するべきだし、傷つきながらもなんとか人並みの人生を送っているよという人もやはり幸運に感謝すべきだと考えています。
だってその時期には、誰にでも、もっとずっとひどい事が起こるような可能性が秘められていたはずだから。

だから私も、その幸運に感謝しながら、なんとか日々生きています。
たとえ列車の上でボロボロに傷ついて、取り返しのつかない大きな傷を背負ったにしても、です。
誰もがもっとひどい事にだってなりえたのです。
大体そんなふうに考えて生きてます。

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