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思い出せない思い出

「幼年時代を持つということは、一つの生を生きる前に、無数の生を生きるということである。」
これは私の好きな名言のひとつ、オーストリアの詩人リルケの言葉。

あなたは自分の幼少期を覚えていますか?

今日『アフターサン』という映画を見た。
11歳の娘と若い父親の夏休みを描いた作品。彼らの夏休みは、ビデオテープに収められ、それは未来へと、大きくなった娘へとのこされる。

もし私たちの幼少期もビデオに収められていて、今それを見たら私たちは何を思うだろうか?
その頃の両親の気持ちを、知らなかった一面を私たちは知ることができるのだろうか?両親の気持ちを知って私は何を思うだろう?
自分の幼年時代を懐かしく思い、その頃に帰りたいと思うだろうか?今の自分と対比して、過ごしてきた過去を後悔するのだろうか?

一人一人過ごした幼少期は絶対に違う。
でも、確かに言えることは、みんなに幼少期があったということだ。
あなたの幼少期はどんなでしたか?

私が思い出せる幼少期は、もっぱら小学校の友達と遊んでいるときのこと。
今も小学校の友達と連絡を取っているから、その時の記憶が思い出しやすくなっているのかもしれない。
でも、友達と過ごした時間より、家族と過ごした時間の方が圧倒的に多いはずだった。
誕生日は何をもらったっけ?夏休みはどこに連れていってもらっていたんだっけか?
どういう時に親は喜んでくれ、褒めてくれたんだっけ?

私は忘れてしまっている。
怒られた記憶はたやすく思い出せるのに。
でも、映画を見て思いだしたことがある。怒られたり、時にはビンタされたり、悲しいことはあったけれど、確かに私は愛されていた。
周囲の大人から愛をもらい、大事に守られ、友達とぬくぬくと遊んでいた。
悪いこともしたし、やんちゃだったけれど、それも許される世界にいた。
やりたいことがあれば、「やりたい!」と叫び、欲しいものがあれば「ほしい!」と駄々をこねた。
一貫性も責任も必要がなかった。私は思うがままに、無数に生きていたと思う。
「幼年時代を持つということは、一つの生を生きる前に、無数の生を生きるということである。」リルケの言葉はその通りだと思う。

今年で25歳になる。
そろりそろりと一人の女が自分の母親となった年齢へと近づいていく。
私はもう、一つの生を責任をもって生きなくてはならない。
”幼少期”という素晴らしい世界を守ってくれた大人たちの気持ちを、私は知ることはできるだろうか?
私はまだ「無数の生を生きたい。あの頃は幸せだった」と駄々をこねる子供のままだ。
一つの生を生き、仕事やお金や人間関係に悩みながらも、子供に無数の生を与えてやれる大人にならなければならない。

とにかく自信はない。
でも自信がなくても、覚悟するしかない。
「逃げるな」
幼少期に母から言われた言葉を思い出す。


記事の内容とはあまり関係ないけど、素敵な映画だったので、ぜひ見てください。見終わったあと、私は泣きました。


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